もう忘れたかしら?
<2009/7/15(水)>
東中野という駅は、なんとなく忘れられがちなところであるのも事実でしょう。
今でこそ都営地下鉄大江戸線との交差駅になったため、乗り換え乗降客も多くなり、多少は知名度もアップしましたが、それまでは
「そんな駅、あったっけ?」
せいぜい
「明大中野中高のあるとこね」
「ああ、中野の手前の土手の桜と菜の花が見事な、あそこ?」
というイメージだったのではないでしょうか?
お隣「大久保」はピンクっぽいイメージが濃厚で、しかも昨今では、大阪・鶴橋にも匹敵する巨大コリアタウンとしても全国的に有名です。
それに比べて、東中野はマイナー感がいなめなかったですね。
実際はなかなか便利な住宅地で、駅至近に巨大なスーパーがいくつもあり、魅力的な商店街もあります。それから左党には何よりの、「ムーンロード」という名称も意味ありげな、ちょっとチープがかった飲屋街も完備。
終電がなくなって新宿から歩いて帰っても、ここならなんとか許容範囲で帰宅できます。
住みやすい街、と言って良いんじゃないでしょうか。
むかしから暮らしやすいのは間違いなかったようで、しかも中野よりも家賃が安かったのでしょう。小さな間取りの、はっきり言ってボロいアパートが建ち並んでいました。
東中野駅には改札が2つあり、大江戸線に乗り換える西口(中野寄り)は山手通りに面している高台。
東口改札は駅舎跨線橋そのものも木造で昭和の匂いプンプンです。ぐっと低地になっており、安アパートが多いのもこちら方面です。
(誤解のない用意に付け加えますが、こちらも最近では高級マンションが急に増えてイメージを変えています。2007年の12月、結婚式場「日本閣」が地上31階建ての商業・賃貸住宅複合施設「ユニゾンタワー」になり、特に東中野のイメージを一新しました。)
低地の底にあたるところを川が流れています。
これがかつて、集中豪雨のたびに氾濫し、周辺を困らせた暴れ川「神田川」です。
最近は深く掘削されて垂直の護岸で固められ、また周辺の地下に巨大な一時貯水施設も建設されたために、ひところよりはおとなしい川になっています。
この神田川にそって、昔ながらのアパートが並んでいます。
かつてはそれこそ安アパートだらけでしたが、今ではマンション建築に建て直された物件が多いのも時の流れ。
安アパートに神田川。
そう、こここそが昭和の名曲「神田川」(作詞・喜多条忠、作曲・南こうせつ、歌・かぐや姫)の舞台なのです。
「あなたは もう 忘れたかしら♪ 赤い手ぬぐいマフラーにして♪ 二人で行った横丁の風呂屋〜♪」
45歳以上の方なら、どなたでもすぐに口ずさめるんじゃないでしょうか?1973年のヒット曲です。
私は当時、多感な高校生でしたが、京都在住であったために「神田川」のなんたるかを知らず、京都の夏の風物詩、鴨川の上に沿岸の料亭が差し掛ける「納涼床」のようなイメージで考えていた……わけはありません(笑)。
なんとも切ない歌詞。こころに響く優しい旋律。哀愁をそそるバイオリンの調べ。
これに刺激されて私も当時、バイオリンを習ったものです。ああ、なつかしいなぁ。あの鈴木のバイオリン、いまどこに仕舞ってあるのかなぁ。
当時「同棲」という言葉が流行りました。結婚ではなく同棲。
この単語に刺激されない男子高校生がいたら「教育的指導」しちゃいます!(笑)
「同棲時代」という映画もありましたっけ。主演は由美かおる。ヌードを披露して大騒ぎでした。
テレビ「水戸黄門」の制作スタッフは、きっとこの世代の人間に違いない(笑)
「神田川」のふたりも同棲なのでしょう。
「あなたは もう 忘れたかしら♪」
って、いまは別れています。結婚して離婚して……という感じでもないですから、やはり同棲でしょうね。
「若かったあの頃 何も恐くなかった♪」
いまは同棲も婚前交渉(この言葉古い?)も「できちゃった結婚」も当たり前のように語られますが、当時はまだ同棲は風当たりが強いものでした(だから一層、高校生には刺激的だったのです)。
若さゆえの強さ。世間が何と言おうとも強固な愛に結ばれた二人の世界。
はじめ、作詞した喜多条忠は、このフレーズでお仕舞いにするつもりだったとか。
学生運動が盛んであり学生はヤンチャ、しかし高度経済成長期で就職にも今ほど苦労しない恐いもの知らずの世相。ここで終わっても良いという選択はあったのでしょう。
しかし何か余韻がない。心に響かない。
そこで加えたのが
「ただ あなたの優しさが こわかった♪」
です。
この最後の一節で、この曲は名曲になったのだと思います。
このフレーズは聞く人それぞれに自由な解釈を与えてくれます。
「いつかあなたの優しさが薄らぐのではないか、失いたくないという恐れ」
「あなたの優しさばかりに頼る自分の不安定な状態が恐い」
「私だけでなく、誰にも優しいあなたに不安」
「あまりに一途なあなたの優しさがかえって重荷である」
「優しいだけのあなたに不安」
それぞれの解釈で良いんじゃないでしょうかね。100人には100人の青春の思い出があるのですから。
1970年代の中央線は、いまよりももっとディープなカウンターカルチャー(本来の意味で)の雰囲気が横溢していました(私には同時代体験はないのですが)。
「同棲」も「結婚」に対するある種の「カウンター」だったのかも知れませんね。
中央線文化を語る上で忘れられがち(早稲田近辺が舞台と間違えられがち)な「神田川」ですが、中央線的に歌詞を解釈すると、一層親しみが涌きます。
東中野駅から南側、大久保通りと神田川が交差するあたりに「神田川」の歌碑があります。
神田川沿いは桜が美しい並木道。川面にさしかかるような枝振りが見事。
来年の花見にぜひ再訪してみようと思います。
スーさんの釣り堀
<2009/7/24(金)>
今日もまた雨。
本当に梅雨に舞い戻ってしまいましたね、これでは。
気象庁の方々、ちゃんと高円寺の気象神社にお参りに行ったのかなぁ?(笑)
気象神社に「明日晴れますように」とお参りに行かれる方もおいでのようですが、もともと気象神社は「天気予報が的中しますように」という神社ですから、お間違いなきように。
じゃぁ昨日に引き続き、今日も水っぽいお話しといたしましょう。
まず例の2005年9月の水害時、水没?した阿佐ヶ谷駅について。
阿佐ヶ谷駅の南口ロータリーから西に延びる商店街は「川端商店街」と言います。
このあたり、かつて文学者が多く住んで「阿佐ヶ谷文士村」などという通称もあったということで、川端康成先生の旧宅があった……とか、そういうわけではありません。
実は川端康成は、8か月間ほど阿佐ヶ谷駅の近所に住んだことはありますが川端商店街からは離れたところです。
川端商店街の名称は、実際に「川端」だったからこそのネーミング。
そう、水没もするはず。阿佐ヶ谷駅前は、元々はなんと川だったのです。
高円寺には馬橋稲荷神社という、こちらも由緒ある神社があります。ここでは江戸時代、よく雨乞いが行われていたそうです。
江戸中期以降に田畑の開発が進んだ中野・杉並地区では、やがて水不足に直面します。
宝永年間に天沼・阿佐ケ谷村は、千川上水(元禄年間に開削)から分水を引くことを許されました。これは通称「六ケ村分水」と呼ばれます。けれどもその先の高円寺・馬橋・中野の三ケ村は、その恩恵に預かることが出来ませんでした。天沼の弁天沼を源とする桃園川の水量は乏しく、そのため田圃の用水は雨水に頼るしかないため、雨乞いが盛んに行われたのです。弁天沼の中之島にあった弁天堂でも、雨乞いが行われたとか。
しかし、いつまでも神頼みでは仕方がありません。「天は自ら助くる者を助く」というじゃありませんか。しかも「天保の大飢饉」が関東一円を襲いました。高円寺・馬橋・中野三ケ村の名主さんたちは相談し、水量豊かな善福寺川から桃園川に通じる水路を開削しようと決意。工事は青梅街道という丘を胎内掘り(地下トンネル)で越すという難しいものでしたが、幕府の協力と優秀な民間技術者、川嶋銀蔵の力により見事成功。これが「新堀用水」です。荻窪団地のあたりで取水し、杉並高校横の成宗弁天池を中継地とし、地下トンネルで青梅街道を横断。杉並区役所やショッピングアーケード「パールセンター」の地下を通り、桃園川の東橋付近で合流していました。
豊かな農村地帯であった高円寺や阿佐ヶ谷近辺には、こうした用水路が縦横に走っていました。
阿佐ヶ谷駅南口を流れていた「阿佐ヶ谷川」は、こうした用水の一つで、上記「六ケ村分水」が桃園川に合流する最終地点であったのです。
もともとが川だったのですから、阿佐ヶ谷駅南口、水害に弱いというのはある意味、当たり前ということなのでしょうか。
さて、もうお気づきでしょう。
以前お話しした阿佐ヶ谷の釣り堀「寿々木園」。あそこは川端商店街の先にあり、この「阿佐ヶ谷川」に近く、元々が沼沢地であったところを有効利用したのだと思います。
杉並区内では、こうした水路は昭和30年代までにはほとんど暗渠化したようですが、本当にあちこちに水路の痕跡が見られます。ちょっと細い道でマンホールが目立つところ。それは間違いなく昔の水路です。杉並区の場合、こうした通路の入口には「熊にまたがる金太郎」の描かれた車止め柵がありますから、すぐにわかります。
金太郎の車止めを見かけたら、水で苦労した江戸時代の人々を偲んでみるのも興味深いと思います。
さて。
なんとここまで、すべて「前振り」。
だって今回の記事は「東中野」ですよ。
そう、東中野にあった、もうひとつの釣り堀「寿々木」さんのお話しです。
杉並・中野を縦横に走る多くの小河川・用水路の中に、小沢川と呼ばれた川がありました。
青梅街道、東京メトロの東高円寺駅付近からスタートし、環七を越えて中野富士見町駅付近で神田川に合流していました。
この川もときどき氾濫しました。
大正時代、いまの東高円寺駅前にあった蚕糸試験場(現在の蚕糸の森公園)内の池の水もあふれて小沢川に流れ込みましたが、そのとき池にいた大量の鯉が流出。神田川まで流れていったのです。そして鯉たちは東中野駅(当時柏木駅)前の田圃に出来た大きな水たまりに流れ込みました。
それに目を付けた地元の黒田さんという方が、池を本格的に整備して、そのまま釣り堀を開業。池は300坪の広さがあり、多くのお客で賑わったそうです。
けれどその当時、神田川では魚に麻痺効果のあるエゴの実をすりつぶして川に流し、浮いてきた魚を獲る漁法がありました。その毒が釣堀に流れこんで鯉が全滅するという事態が発生。黒田さんは廃業を決意しました。
その話しを聞いた鈴木さんという人が、「なにしろ駅前物件。これはやりようで大化けするぞ」と踏んで釣堀の権利を購入。鯉をやめて「金魚の釣堀」に改装して再スタートしました。これが当たり、都内からどんどんお客が来るようになると鈴木さん、釣り客相手に茶店を出しました。やがて食事も提供するようになり、そのまま自然な流れでお酒も出すことに。そしてとうとう割烹料亭「寿々木屋」を開店したのです。大正9年のことです。ちなみに柏木駅が東中野駅に改称したのは大正6年。当時の駅は今よりも東にあり、「寿々木屋」はまさに駅の目の前だったそうです。
東中野で割烹料亭。
はい、皆様お気づきですね。
そうです、これが現在の「日本閣」なのです。昭和10年、「寿々木屋」は「日本閣」と名称を改めて都内初の専門結婚式場となりました。鈴木さん、本当にやり手だったのですねぇ。
現在では広大な敷地の多くがツインタワーマンション「ユニゾンスクエア」となりましたが、「日本閣」も「West 53rd 日本閣」として健在です。
用水路と神田川が生んだサクセスストーリーでした。
あ、阿佐ヶ谷の鈴木さんと東中野の鈴木さんの関係は存じません。
まぁ、「鈴木さん」は日本で一番多い姓らしいですからね。偶然なのでしょうが面白い符合ですね。
それにしても・・・・明日は晴れて欲しいなぁ。
映画館健在なり
<2009/10/1(木)>
演劇関係に縁の薄い私が、よくも話題がつながるなぁと思います。
今日はナマの演劇ではなく、映画のお話し。演技が関係することでは共通点があるでしょうか。
拙ブログで扱う範囲の中央線沿線の映画館と言いますと、吉祥寺のシネコン(なのかな?)である南口の「吉祥寺東宝・オデヲン座・スカラ座・セントラル」、ちょっとマイナー気味の映画を多く上映している、レトロチックな北口の「吉祥寺バウスシアター」。それくらいしかありません。映画館はひところ斜陽産業と言われて、どんどん閉館していったのですね。
中野では北口に「中野武蔵野ホール」という映画館が、最近までありました。かつてあった「中野武蔵野館」という映画館が、紆余曲折を経てリニューアルし、1987(昭和62)年にオープンしたものです。サンモール商店街の駅寄り、コージーコーナーの角をちょっと入った場所に位置し、数多くの実験的な映画や古い日本映画、チェコアニメまで、幅広く上映していました。その後、同じ武蔵野館系列の「新宿昭和館」が2002(平成14)年閉館するに際して、「任侠映画専門の昭和館の跡目を継承する」ということから、中野武蔵野ホールは任侠映画中心の上映館となりました。が結局、2年後の2004(平成16)年、残念ながら閉館とあいなりました。現在はご多分に漏れず、パチンコ店になっております。
中野ではかつて、駅南口の正面に「中野名画座」、その裏手に「中野東映」、中野通りを下った五差路に「光座」という映画館があったそうです。駅前の2館は早くに閉められ、光座だけは1990(平成2)年まで上映されていたとか。光座の、赤紫色のトタンが壁面を覆う建物は、。光座はピンク映画専門の映画館(にっかつロマンポルノ封切館)だったそうですが、私はその時代を存じません。現在では小演劇の劇場(客席120)として使用されています。昨日の「ポケットスクエア」からも近いですから、まさに中野南口は小演劇の街ですね!。
ただ……光座は老朽映画館の再利用ですから、空調や照明の設備が皆無で、ここで公演をされる劇団の方は、かなり苦労をされたとか。ここは昭和レトロの建物自体が、一見の価値を持っていそうですので、その効果を狙って、あえてここで公演される方もおいでだったのでしょう。
この光座、今年2009年の11月20〜30日、劇団「新転位・21」の『東京物語』公演を最後に、ついに閉館となるそうです。で、そのあとは来春、再開発のために取り壊しになるとのこと。この際、一度は中に入っておいて見たいかも……。
※2010年10月の追記
いまや光座は解体されて更地とあいなりました。マンションになるとか…。
そんなこんなで、映画館はどんどん無くなる傾向にあるのですが、どっこい頑張っている映画館もあるのです。今日のテーマはそこ。東中野の「ポレポレ東中野」です。
今からは想像も付かないことですが、かつては東中野にも2軒の映画館があったそうです。駅の南側(現在ラブホテルがある辺り?)に、「金竜座」「銀竜座」という名の映画館があったとのこと。名前で判るとおり姉妹館で、金竜座が邦画、銀竜座が洋画の上映館だったそうです。けれども時代の流れと共に閉館。それを惜しむ、ある地元の方の「街には映画館があるべきだ」という思いで実現したのが、東中野駅の北側、ホームからよく見える位置にある、現在の「ポレポレ東中野」なのです。
1994(平成6)年に開設されたときには「BOX東中野」という名称でした。地下にあるという構造上の利点から、天井を高く取れるため、客席(102席)当たりのスクリーン面積は日本一、という映画館。上映作品はマニアックなドキュメント映画、インディーズ映画が多く、コアなファンに熱い支持を受けていました。開館から9年間に3000作もの作品を上映されたとか。その後、さまざまな事情があったらしいですが、入居している「ポレポレ坐ビル」のオーナーに経営が移り、2003(平成15)年から「ポレポレ東中野」と名称を改めて営業中です。経営・名称は変わっても、上映される作品の個性的なマニアックさは昔のまま。
オーナーさんは、本橋成一さんとおっしゃる、写真家・ドキュメンタリー映画作家。東中野で生まれ育った、生粋の「東中野っ子」です。再開発前に山手通りにあった、青林堂という書店の息子さんで、江戸時代から続く名家(石神井の豪農)の当主でもいらっしゃいます。写真を学ばれ、1998(平成10)年に、チェルノブイリ原発事故被災地の人々をドキュメントした『ナージャの村』を初監督、2002年には『アレクセイと泉』などで数々の映画賞を受賞。さらに『ナミイと唄えば』(2006)、今年の春には『バオバブの記憶』と、連続して作品を監督されています。
東中野再開発でご実家の書店が立ち退きとなり、その補償金で現在の土地にビルを建設されるとき、かつてのBOX東中野の運営者の方から「映画館を」という話しがあったそうです。映画館を作るには地下2階相当の掘り下げが必要で、その費用も莫大になるため、周囲からは反対の声があったらしいですが、本橋さんは「東中野に映画館があるべきだ」というお考えから、映画館を作られたとのこと。その意気やよし。決意されるとき頭をよぎったのは、「金竜座・銀竜座」の記憶だったそうです。
ところで「ポレポレ」という不思議な単語は、スワヒリ語で「ゆっくり、ゆっくり」という意味だそうです。本橋さんは1973(昭和48)年にフジテレビの取材で9か月間、東アフリカに滞在されましたから、現地のスローライフを体得されたのでしょうか。
2005 年には1階に、カフェ「ポレポレ坐」と、その奥のイベントスペースもオープン。カフェはおしゃれでメニューも品良く、日中は地元のマダム連の社交場となっています。
ポレポレ東中野は、公募で選ばれた支配人、大槻貴宏さんのセレクトもよろしく、興味深いマイナー作品を上映し続けています。これからも映像作品の発表の場として、ますます活躍して欲しいと期待しています。