HOMEいとしの中央線 > 高円寺

 高円寺


 ご縁があります
     <2009/7/16(木)>

 ご縁がありまして、2か月に一度ほど高円寺の氷川神社に出かけます。参詣ではなくビジネス?で。
この高円寺氷川神社は駅から徒歩1分の好立地。まったく神社にしておくには勿体ないような(不敬かしら)一等地にあります。
高円寺駅の南口を出て、ロータリー奥を左(東)へ、坂を下った途中になります。

この神社は由緒書によりますと・・・
「源頼朝奥州征伐の時武蔵国杉並の地に至り給わり際隨兵の中に当高円寺村にとどまり、終に農民となる者あり。一説によれば村田兵部某云々ともいわれ(因みに村田性は高円寺の旧家なり)その時武蔵野国大宮高鼻の本社よりの御神意の使者が同氏につたえ、この高円寺村の位置高く採松杉稠茂し遠く水田をを望みて風致絶佳とされる当地に社殿を建立したのが起源といわれている。当社は古来、高円寺村小名原の鎮守にして旧時曹洞宗高円寺別当職として奉仕せり。」(抜粋)
源頼朝云々をどう考えるかはなかなか難しいのですが、少なくとも江戸時代初期には鎮座されていたようです。

ところで東京には「氷川神社」という社名の神社があちこちにありますよね。それは東京が埼玉県とあわせて「武蔵国」であった江戸時代まで、武蔵国一の宮として埼玉県大宮の氷川神社が選定されていたことに依ります。上記由緒書にある「武蔵野国大宮高鼻の本社」がそれ。この大宮の氷川神社は、これはもう本当に由緒ある神社で、平安時代前期の朝廷の規則書『延喜式』にも掲載され「名神大社」という最高級のランクを朝廷から与えられていた関東でも指折りの神社です。「大宮」という地名も、この由緒ある神社の所在地というところから命名されたものです。その由緒ある神社の分社が、武蔵国のあちこちに建立されたわけ。高円寺氷川神社もそのうちの一社ということになります。

ちなみに「○○国一の宮」というのは朝廷公認のものではなく民間の呼称で、力関係や政治上の事情から変遷があります。武蔵国一の宮も、はじめは多摩市の小野神社だったようです。
さらにちなみに。
府中市の大国魂神社も大きな神社です。ここは「一の宮」ではなく「武蔵国総社」とされます。府中はその名の示すように古代の国府が置かれた街。国司が居住し政務を執っていました。国司は国内の主要神社六社に参詣する必要がありましたが、面倒くささを嫌うのは世の常。国内六か所の神社を一つにまとめて国府近くに祭り、そこにお参りさえすれば六社参詣したことと同じ、という超お手軽な方法を採るようになりました。これが総社で、全国に総社や六所神社などの名前で残っています。

高円寺氷川神社の話しに戻しましょう。
境内に入りますと、駅徒歩1分とは思えないほど森閑とした静けさがあります。神社はこういうところが素敵ですね。ガラス張りの展示場?があり、高円寺各町会の見事な御神輿を見ることが出来ます。御神輿は毎年8月27〜28日の例大祭に町内を練り歩きます。

それから境内の一角に「気象神社」があります。最近では国家資格「気象予報士」の合格祈願に全国から訪れる方も多いとか。なにしろ気象と銘打った神社は全国唯一ですからね。駅前ですから来やすいですし。結構な人気です。

この気象神社、大昔からのものではありません。
中野駅北口の中野サンプラザの西側に広がる広大な地域は、明治時代以降は軍用地でした。中野どころか阿佐ヶ谷あたりまでの広大な範囲だったようです。はじめ鉄道隊、やがて電信隊と気球隊が置かれました。気球は砲弾の弾着を観測し、照準を正確に補正するために当時無くてはならない存在だったのです。気球隊が発展して飛行隊となり、なんと「中野飛行場」(!)を建設する計画だったのですが、その頃には周辺に民家が増えていて断念。通信学校と陸軍気象部が入りました。……ということで、気象神社が建立されたわけ。終戦間近な1944(昭和19)年のことです(もう戦況は神頼みの時期に入っていたのでしょうか)。気象部の玄関右側に鎮座し、勤務前に気象観測員が気象予報の的中を祈願したそうです。

戦後、陸軍気象部は気象庁の気象研究所に改組。広大な軍用地の多くは、敗戦後にバラックを建てて住みついていた多数の空襲罹災者や引揚者に安く払い下げられました(あ〜そのときに住んでいたら……)。中野〜阿佐ヶ谷あたり、中央線北側の町並みがゴチャゴチャしているのには、そんな経緯もあるのです。
その後、気象研究庁は1980年に筑波に移転し、その跡地は馬橋公園になりました。
気象神社は戦後すぐGHQの「神道指令」で撤去されるはずでしたが、小規模のためか調査漏れで残り、1948年に旧第三気象連隊のメンバーが払い受けて、比較的近所にある高円寺氷川神社に遷したのです。これが気象神社が高円寺氷川神社にある由縁です。

一昨日、関東も梅雨明け宣言が出ました。
よく「梅雨明け宣言した途端に雨続き」みたいな年もありますが、今年は見事に「梅雨明け十日」の晴天続き。急激な気温上昇で私も少しバテ気味です。
梅雨明け宣言まさにバッチリ的中。気象庁の人、気象神社にお参りしたのかな?





 高円寺と言えば
     <2009/7/16(木)>

 子どもの頃は関西におりましたので、東京の地名はほとんど知りませんでしたが、高円寺は知っていました。それは「高円寺のおばちゃん」の存在によってです。
いえいえ、私には高円寺在住の伯母・叔母はおりません。「高円寺のおばちゃん」は、テレビドラマの登場人物なのです。

かつて「木下恵介アワー」というテレビシリーズがありました。いま「橋田壽賀子ドラマシリーズ」みたいなのがありますね。あれのもっと素朴な感じなものが「木下恵介アワー」でした。基本は30分番組。
「うらみ・つらみ・ねたみ・そねみ」がモチーフの橋田モノと違い、木下モノは、人間のふれあい、家族の温かさ、困難に打ち勝つ心、といった建設的?なものが多かったように思います。やはり高度経済成長時代の気風なんでしょうかね〜。
木下モノには、竹脇無我とか栗原小巻、あおい輝彦などがよく出演していました。
で、その「木下恵介アワー」の1作に『おやじ太鼓』というのがあり、その番組に登場していたのが「高円寺のおばちゃん」というキャラクターなのです。

『おやじ太鼓』は、のちの『寺内貫太郎一家』のような、頑固親父モノです。進藤英太郎(東映の悪役俳優)という、生まれながらの頑固親父みたいな顔をした親父さん。この人は戦後バタ屋(廃品回収業)から身を起こし、建設会社の社長にまで登り詰めた人物という設定で、やり手だけに周囲に厳しく、子ども達を怒鳴り散らすカミナリおやじです。ただ、曲がったことが嫌いゆえの怒鳴りですから、後味スッキリです。当時ですから大家族。頑固親父と現代っ子との日常に巻き起こる、いろいろな大騒動を面白おかしく描いた典型的なホームドラマでした。そうそう、親父の名前は「鶴 亀次郎(つるかめじろう)」でしたっけ。

その亀次郎さんの亡くなった兄の妻(亀次郎の兄嫁)が「高円寺のおばちゃん」です。ときどき何の前触れもなく鶴家に現れて、勝手に鰻重の出前を頼んで、食べて帰ってしまうと言う、なんともユニークな存在でした。特に重要な役どころであったとは記憶していませんが、その明るく飄々とした雰囲気と、「高円寺のおばちゃん」という親しみやすい呼び名で、『おやじ太鼓』を御覧になった人は記憶されているのではないでしょうか。おばちゃんは未亡人となってから亀次郎の援助で高円寺でアパート経営をして暮らしているという設定でした。女優は小夜福子。
やはり、今と同じく高円寺は「アパートの街」だったのでしょうか。アパート経営なら高円寺、という視聴者を納得させる共通イメージがあったのかもしれませんね。
私はそこまで考えず、いつも鰻を食べている高級住宅の婦人、というイメージで捉え、高円寺は高級住宅地なんだろうなぁと思っていました。
(以前に飲み屋で隣り合った関西出身の方も、そんな印象だったと語っていました)

少女漫画雑誌にギャグ漫画「パタリロ!」というのが連載されていました。のちにテレビアニメにもなりました(なぜ私が少女漫画を知っているかというと、大学時代の教育実習で高校に行った際、女子生徒に見せてもらったからでございます)。その漫画の主役であるパタリロが、たまに「高円寺のおばちゃん!」と叫び、天井から和服姿の老婦人が降ってくる、というギャグパターンがありました。いえ、意味なんぞありません。漫画ですからね。それを見て私、
「はは〜ん、作者は『おやじ太鼓』を見ていたな。」
と思いましたね。でも読者層(当時の少女たち)で、そのギャグの出所をどれだけ知っていたのかなぁ。あ、でも教育実習の場合、生徒の年齢は私より6〜7歳下程度だから、知っている子は知っていたかも???

ところで。
聞いて「へ〜」と思ったのですが、高円寺氷川神社そばにかつてあったジャズBARのオーナーが、『おやじ太鼓』で、ちょっと蔭ある次男役を演じていた西川宏という俳優さんだったそうです。西川さん、「高円寺のおばちゃん」の援助でお店を開いたのかな?(笑)





 サービス=カロリー?!
     <2009/7/29(水)>

 以前、学食(学生食堂)にかかわる仕事をしたことがあります。
つまりは一種のお目付役で、メニューであるとか料金であるとか、サービス面などの注文をあれこれ言う係・・・というか委員。文句を言うだけなのでコッチは楽ですが、文句を聞く側のお店は大変だったことでしょう。あのときは、どーもスミマセン。
いえ、実はコッチも大変でもあるんですよ。
メインの利用者である学生諸君の意見と、お店側の事情を両方とも知っていますから、うまく「落としどころ」を見つけて摺り合わせをしませんとね。これがなかなか厄介でした。

最近の学生さんは、おおむねヘルシー&ライト志向です。
健康面を考えて肉よりも魚、という人も多いんですよ、意外にも。
自炊するときには魚は敬遠されがちなのですが、これは調理が面倒だから。
外食の場合は案外と魚料理も人気があるんです。やっぱり日本人ですからねぇ。おっと、最近は留学生も多いですが、同じく魚料理が好きのようです。
本国では美味しい魚料理が少なかったけれども
「日本で魚の美味しさに開眼しました」
なんていう人も多いんですよ。海洋民族の日本人としてはうれしいですね。

ところが学食の定食メニューにはほとんど魚料理がなかったのです。
そこで月に1回の懇談会?のときに
「もっと魚のメニューを増やしてくださいな」
と毎回言ってみたのですが、なかなか採用してくれません。
理由は
 (1)魚は仕入れ価格の上下が激しいので予算が組みにくく、固定価格(450円)の定食では提供しにくい
 (2)その時々の天候等で仕入れが極端に減ることもあり、安定供給に自信が持てない
 (3)天然ものの場合、味や品質も一定にすることは困難である
 (4)揚げ物ならば別だが、焼物は専用の調理器具が必要
 (5)調理器具が生臭くなるし、廃棄物も多く出るのが負担
などでした。

まぁ判らないでもないですので、とりあえず「白身魚のフライ」「白身魚のムニエル」を日替わり定食の一部に導入して貰うことで合意点としました。
白身魚は冷凍の輸入モノ。スケトウダラとかメルルーサとか、そういう魚ですね。これなら固定価格での安定供給が可能です。
学生さんには、おおむね好評でした。冬場に数回だけ、丼セット(400円)に「ちらし丼」「鉄火丼」を強行させましたが、これは大好評。あ〜懐かしい思い出です。
カレー300円なんですけれども、これって学食の価格としてはどうなんでしょうね?

懇談会の席上で、どうも話しがかみ合わなかったのが、お店側の人が
「サービスすること=カロリーを上げること」
と考えているらしいことでした。そのお店は経営者の考え方から、体育会系出身者を多く採用しているようなのですが、彼らの発想は、サービス=カロリーらしいんですね。
思い返せば私も、学生時代はそうした考え方の食生活を送っていたような気がします。
でも、今の若い女子学生さんは、かなり逆の発想をしているように思いますよ。
こういうように、元々の発想、思考回路が異なっている者同士の話し合いは骨が折れるものです。
そうは言いませんでしたが
「お肉のほうが魚よりカロリーが多いから喜ばれるはず!」
と信じている様子がありありでした。

さて。
中央線沿線(中野〜荻窪界隈)の駅近食堂は、どちらかというと「サービス=カロリー」と考えている、昔式の発想のお店が多いように思います。
それは何と言っても、その界隈には安アパートに住む、比較的経済的に恵まれない、食べ盛りの若者が多いからでしょう。なんというか、高度経済成長時代の若者のバイタリティーが現存しているような雰囲気ですね。その意気や良し。それに応えているお店側の姿勢、これまた良し、です。

私が、「これは参った」と兜を脱ぐ、そうしたお店の代表格が「タブチ」です。
中野と高円寺にあります。中野店は南口、丸井(現在工事中)の横、中野通りから桃園通りに上る細い坂道。高円寺店は、ガード下(高円寺ストリート)を阿佐ヶ谷方面に少し歩いたところにあります。高円寺ストリートは基本的に夜の町なので、昼間歩くとなんとなくうらぶれた、さびしい雰囲気がするのですが、タブチはいつも元気です。お店の雰囲気は「食堂」と言うより「立ち食い蕎麦店」的とも言えるでしょうか。まぁお世辞にも「きれいな店内」とは申せません(苦笑)。あ、高円寺が本店らしいので、一応この記事の分類は高円寺にしておきました。

さてこのタブチ、「サービス=カロリー」の王道を行く店で、「鳥野菜フライ定食」などを頼むと本当に驚きますよ。大盛りの飯(めし。ライスなどという表現ではない)とみそ汁、味付け海苔に、メインディッシュ。このメインディッシュが大きく、キャベツ千切りの上に、ワラジサイズのチキンカツと、カボチャやナスの巨大(全長10cmはある)なフライがゴロゴロ。ま〜余程の大食漢さんでも満腹になること請け合いです。それが何と500円ですよ。カロリー当たりの価格では、学食より断然安いでしょう。
カレーライスは400円ですが、当方の学食の2倍サイズはあるんじゃないでしょうか。
カレーセット560円にしますと、その巨大カレーにアジフライが4尾つきます。ひえ〜〜。
ともかく「大きいことは良いことだ」の高度経済成長的発想です。
思わず、気球に乗ってチョコレートを振り回したくなることでしょう(笑)。

いや〜、良いと思いますね、こういうの。
エネルギッシュであることを否定的に捉える見方が今の日本にはあるように思いますが、それが経済をはじめ、日本全般が停滞ムードである主因であるように思えるのです。
エネルギッシュであり続ける中央線の若者、素晴らしいじゃないですか。

ある人に言わせると、経済的に発展途上の若者が多い中野・高円寺・阿佐ヶ谷。
駅によって少しずつ若者のイメージが変わるそうです。
 中野=(売れない)芸人
 高円寺=(売れない)ミュージシャン
 阿佐ヶ谷=(売れない)小説家
なるほどね〜、雰囲気出てます。
ぜんぶに付く(売れない)は、逆に(将来楽しみな)(夢がある)とも言い換えられると思います。
タブチのフライを食べて、カロリーをエネルギーに変え、大きく羽ばたいて行って欲しいと、本当にそう思います。
そういえば阿佐ヶ谷にはタブチはありませんが、やはり机に向かうだけの、小説家志望の文化系人間には、ちとカロリーが高すぎるのかも(笑)。

それにしてもウチの学食、タブチに来ていただいたらどうなるかな?
1品を3人でシェアしたりして、まさに驚異の低価格ランチになるような予想が・・・。
それも案外、良いかも?!





 タナぼた高円寺
     <2009/8/10(月) >

 高円寺と言えば阿波踊り。
いまや本家本元、徳島の阿波踊りよりも集客数が多いそうですね。
こういう地域興しのイベントは各地でよく見られますが、高円寺阿波踊りは、さだめし大成功事例でしょう。
いや、阿波踊りの話しはまた日を改めるとしまして・・・。

高円寺がこうして「中央線の駅前」として栄えることができたのは、ある偶然・・・いや、まさに「棚ぼた」のお陰なのです。さもなければ、ただの「中央線沿い」の街に過ぎなかったかもしれないのです。
さて、どういうことなのでしょうか。。。

中央線はもともと民営の甲武鉄道。
1889(明治22)年に新宿〜立川間で開業したときの駅は、
 新宿〜中野〜境〜国分寺〜立川
でした。
・・・意外ではないですか?
吉祥寺もなければ三鷹もない。荻窪もない。
にもかかわらず、境(現在の武蔵境)駅があるという不思議。

その理由はいろいろあるようですが、境駅は名勝「小金井桜」を見物する、花見客を主な旅客として開業した、という背景があるようです。
 小金井桜は江戸中期に玉川上水の堤に植えられたもので、小金井橋を中心に約6km、上水の両岸に植えられた見事な桜並木。江戸後期には江戸近郊有数の花見の名所として広く知られ、大勢の花見客が集まりました。
 甲武鉄道開通の明治22年4月11日は、まさに小金井桜満開の頃。ここに駅を作らない手はないと、境駅が設置されたようです。
 ただ、小金井桜の中心地へは、武蔵境駅からでは少し距離があります。そこで1924(大正13)年に、花見時期に限って小金井村に臨時停車場が開設されるようになり、1926(大正15)年、正式に「武蔵小金井駅」が開業しました(いま武蔵小金井駅の発車チャイムは『さくらさくら』)。駅の固定化は、例によって関東大震災後の住民増加が理由でしょう。

さて。
甲武鉄道としては、中野〜境間は長すぎるので、中間に駅を新たに建設することになりました。
しかし、そこは商売。
駅を作る場所は集客が見込まれなければなりません。そりゃそうですね。
そこで、江戸時代からの街道筋と鉄道が交差するところに駅を設置しようと考えました。それならば人馬の往来も多く、さまざまな意味で利点がありますから。これもまた道理。
 そこで、まず荻窪が候補に挙がりました。
荻窪は鉄道が青梅街道と交差する地点です。また南側の、高井戸村など甲州街道沿いの街との交通連絡も良い絶好の場所。
 けれども、荻窪駅開業には紆余曲折があったようで、はじめは駅周辺の地主が、「先祖代々の土地を明け渡せるか」と抵抗してウンと言わず、一時は甲武鉄道側も「もう面倒だから荻窪やめて阿佐ヶ谷村あたりに駅を作るか」という流れに。候補地は現在の阿佐ヶ谷駅より西、「文化女子大学付属杉並高校」のあるあたりだったそうです。
 しかし今度は阿佐ヶ谷村が大反対。蒸気機関車から火の粉が飛んで火事になるということから、一大反対運動を展開しました。実際のところ、当時の質の悪い石炭で走りますと、煙突からかなり火の粉が飛んで、火事になる危険性は大きかったそうです。
・・・で、話しはもとに戻り、結局、現在の場所で荻窪駅が開業しました。1891(明治24)年のことです。

ついで1899(明治32)年に吉祥寺駅開業。吉祥寺は五日市街道と交差する地点として選ばれました。本当は現在の吉祥寺よりももっと東、五日市街道と交差する「本宿」あたりに開設したかったけれども、やはり地主の反対があって・・・というのは八重桜の回でお話し済みでしたね。
 なお、三鷹は昭和になってできた駅です。
元々は電車区(車庫)に付随する「信号場」でしたが、1930(昭和5)年に「三鷹駅」になりました。はっきり言って周辺に何の特色もない場所で、電車の車庫に近いというのが駅開設の理由。しかしその唯一の理由が最大の効用となって、現在、吉祥寺にも停車しない特別快速が三鷹には停車するんですから、面白い巡り合わせですね。

さて大正に入ると、中央線はますます便利になっていきました。1919(大正8)年に吉祥寺まで電化完了。運転本数が増加し、沿線は徐々に発展していきます。また多摩地域の住民たちも、東京市内へ仕事や遊びで出かける機会も次第に増加してきました。
甲武鉄道開業当時は反対していた住民たちも、そんなことを言っている場合ではなくなって来たのです。
「お茶の水」「水道橋」など市内中心部へ直行する電車を、ただ指をくわえて眺めるしかなかった杉並の住民達は、以前とは100%価値観を切り替えて、今度は「駅誘致運動」に乗り出しました。
電車になって火の粉が出なくなったことも理由でしょうね。

鉄道院(明治39年に甲武鉄道は国有化)としても、中野〜荻窪間は長いので、途中駅を作ることにはやぶさかではありませんでした。
 そこでまず、以前に打診のあった阿佐ヶ谷村が、鉄道院に駅開設陳情書を提出。これを聞いた隣村、馬橋村の人たちも「こりゃ負けてられん」と同じく陳情。ここに、阿佐ヶ谷:馬橋間の熾烈な誘致合戦が開始されたのです。

鉄道院としては、馬橋に駅を作りたかったようです。
現在、石川遼クンでおなじみ「杉並学院高校」のあるあたりですね。どうしてかというと、ここが中野〜荻窪間2.5マイル(約4km)の中間地点であるからです。きわめて明快な理由と言えるでしょう。
 内々にその話しを聞いた馬橋村の人たちは大喜び。「勝った勝った」と盛り上がり、地主も協力して「駅」近くに新たな道路を開通させてしてしまいました。この道は「馬橋中央通り」(現在の馬橋通り)で、南は五日市街道〜青梅街道、杉並学院の東を通って線路を越え、大場通り(現在の早稲田通り)に到るもの。まず周辺の交通網を整備して、いつでも駅を開設できるように下準備をしたのです。
 鉄道院もこれに満足し、「馬橋中央通り」と線路が交差する地点に駅を開設することが決定。正式な申請書類の提出を馬橋村関係者に求めました。ここまで来れば「馬橋駅」は決まったも同前。もしもこのままなら、「阿佐ヶ谷駅」も「高円寺駅」も存在していなかった可能性があります。

もしもこのままなら・・・。
そうです。馬橋村は詰めが甘かった。
村役場と大地主だけで話しを進めていたことに、周辺小地主たちがヘソを曲げたのかどうか・・・ともかく、駅用地として土地を収用される立場の人たちが猛反対をはじめました。
「鉄道なんぞ金持ちのものだ。おれたちは一生、鉄道なんぞに乗る機会はありゃせん」
ということだそうです。
 誘致賛成派は、熱心に反対派を説得に回りましたが、一度曲がったヘソは、そう簡単に治るものではありません。結局時間切れとなり、目前まで来ていた「馬橋駅」は幻となって消えてしまったのです。
 やはり、物事を進めるときには十分な「目配り気配り手配り」が欠かせません。「恥を掻いても仁義は欠くな」ですよね〜。こうして新駅誘致交渉は新たな段階を迎えました。

さて阿佐ヶ谷村。馬橋村が暗礁に乗り上げたことを聞いて、俄然、張り切り始めます。なにしろ元々、荻窪駅開設の頃からの因縁ですから、そりゃあ頑張りますよね。きっと「あのとき断っておかなければ」という反省もあったんじゃないでしょうかね。
 ともかく鉄道院に何度も掛け合いましたが、鉄道院はなかなかウンとは言ってくれません。
それは阿佐ヶ谷が荻窪に近すぎるためです。新駅構想は、あくまでも「中野〜荻窪の中間地点に駅を作る」ことが目的だったのですからね。それに新しい道路まで造った馬橋と比べ、阿佐ヶ谷駅予定地周辺は何の交通手段もない原野であったことも拒否の理由です。

そこで阿佐ヶ谷村の有志は、必殺技に転じました。政治力の利用です。
 阿佐ヶ谷駅予定地の南(現在の成田東四丁目)に住む、古谷久綱という代議士に陳情。古谷代議士は「付近の皆さんのためなら」と協力を約束して活動を開始しましたが、なかなか難航しました。やはり鉄道院の「中野〜荻窪の中間地点」方針が固かったからです。
 そこで古谷代議士は一計を案じました。
「そんなに中間地点にこだわるなら、阿佐ヶ谷〜中野間にも駅を作ればいいじゃないか」
さすが政治家ですので思いつくことが画期的。これが功を奏したのか鉄道院は「中野〜荻窪間には2駅新設する」ことになりました。政治力おそるべし!
そのあとも土地収容に関する、地主たちのすったもんだは相変わらずでしたが、とにもかくにも、1922(大正11)年に阿佐ヶ谷駅は開業しました。

ここで一つ。古谷代議士の活動を「票目当ての選挙区利益誘導」と考えるのは浅ましい現代人。
古谷代議士は、なんと愛媛県選出の議員だったのです。そして彼は駅開業を待たずに1919(大正8)年に亡くなっていますが、遺族は駅誘致運動の人たちからの一切の金銭的報酬を拒否しています。
 阿佐ヶ谷住民達は「いくらなんでも申し訳ない」と思い、阿佐ヶ谷駅から古谷代議士の家までの細いあぜ道(鎌倉時代以来の「かまくらみち」)を、人力車がスムーズに往来できるような「三間道路」に拡張しました。これが現在、阿佐ヶ谷駅南口のアーケード商店街「パールセンター」なっているのだそうです。

ちなみに、古谷久綱代議士の甥が「古谷綱正」さん。
毎日新聞記者出身の彼は眼鏡を掛けたインテリおじさんで、私が子どもの頃、TBSの「ニュースコープ」という番組でニュースキャスターをしていましたっけ。

さて。
「棚からぼた餅」は高円寺です。
駅誘致など考えてもいなかったのですが、阿佐ヶ谷から「中野〜荻窪間2駅新設」に関する情報がもたらされ、「それは願ってもないこと」と、躍りあがらんばかりに活動を開始します。
 当初の予定地は、今よりも東寄りの、環七との交差点あたりだったそうです。で、ここでもまた地主達の、あ〜でもない、こ〜でもない、「うちばかり損をするのはイヤだ」の繰り返しでなかなか話しがまとまりませんでした。
 そのとき、予定地より西に土地を持つ地主(彼は馬橋駅誘致でも中心的人物でした)が、「それでは私が土地を出しましょう」と申し出て、現在の地点に駅が開設されることになりました。先見の明があったとしか言えませんね。

こうして、棚ぼたで、急に開設が決まった高円寺駅なのですから、駅の北口はまったくの未整備。馬橋のように、わざわざ大きな道を新設したのとは大違いです。現在でも高円寺駅前には南北貫通の道路(早稲田通りまで通じる自動車道)がなく、北口はごちゃごちゃした商店街密集地(それこそが現在の高円寺の魅力)になっているのは、そうした理由によるようです。
 ただし、昔から開けていた青梅街道や五日市街道につながる南口側には、広い道が新設されました。現在の「新高円寺通り」がそれです。

いま、この「新高円寺通り」を中心会場として、高円寺阿波踊りが開催されています。
南北貫通道路がないゆえに、交通の遮断もしやすく、人の波が北上すると、駅北口の商店街の細い路地のあちこちで、熱い踊りが繰り広げられる高円寺阿波踊り。そのフェスティバル向けの道路事情は、実は「棚からぼた餅」式に、ドサクサに作られた駅ゆえのことだったのです。

阿佐ヶ谷・高円寺と同時に新設された駅が西荻窪。この3駅は「土日に快速が止まらない」ことでも共通していますね。
西荻駅開設については、西荻の項でお話ししましょうか。





 創業大正年間
     <2009/8/14(金)>

 お暑うございます。
やはり夏は夏らしくないといけません。日照不足で野菜も高騰しておりますし、このままでは米不足が懸念されます。1993(平成5)年の「平成の米騒動」を思い出してしまいますね。あのとき、タイ米がまずいまずいと言われて敬遠されましたが、いえいえ私は美味しく戴きました。よく言われるように、ピラフにしたりパスタ式(ゆでこぼし)調理で食べますと、なかなか乙な味でした。

あの米騒動が契機となって、食糧管理法が廃止され、農家が米を直接販売できるようになりました。それまでは「ヤミ米」なんていう、まるで終戦直後みたいな単語が現役だったんですから、今にして思えば凄いことです。

あのときは、お殿様、細川護煕さんが総理大臣でしたね。そうです。荻窪は「荻外荘」にお住まいだった、近衛文麿のお孫さんです。当時、新生党代表幹事であった小沢一郎さんがバックで動いて実現した細川内閣でしたが、おじいさん譲りの「投げだし癖」がモロに出て、わずか9か月で辞任。まぁ、政権は寄せ集めの烏合の衆でしたから、誰がやっても運営は難しかったとは思いますが…。

あれ〜。
今年も米不足になる可能性が危惧されますが、政治の状況も、何かあのときと同じような感じですよね。これって偶然の一致なのでしょうか???
 細川さんの後を羽田内閣が継いで2か月。自民党と社会党が手を握るという、コペルニクス的転回が起こって村山内閣が成立したのが1994(平成6)年でした。で、阪神淡路大震災が翌年の1月。
いやですよ、いやですよ。
最近、どうも妙に地震が多いですし…。ともかく大震災だけは勘弁してくださいね。

1993年の米不足のときは、ちょうど「日本人なら米」という回帰現象が起きていましたので、米の需要が増えたところへの凶作、米不足に拍車が掛かったのでした。

文部省(当時)は、1976(昭和51)年に「米飯給食の実施について」の通達を出しましたが、このときは米回帰現象ではなく、政府の備蓄米(古々米)消費策でした。しかし1985(昭和60)年に「米飯給食の推進について」の通達を出したのは、米回帰と言いますか、極端な食の洋風化への反省といった意味あいだったと思います。そしてついに、2007(平成19)年度では、全国平均で米飯給食が週3回の状況になり、一応「目標達成」となったようです。

実は私、一度も米飯給食を経験していません。
給食の主食と言ったらパンです。食パンの時もありましたし、コッペパンのときもありました。ただよく皆様が「給食のご馳走」の代名詞のように言われる「揚げパン」も経験したことはないのです。実にくやしい(笑)。
ちなみに小学校3年生まで、あの悪名高き「脱脂粉乳」でした。

さて本題。
今はヤマザキパンなどの全国メーカー以外に、地場の手作りパン屋さんが増えて、大変美味しいパンを食べることが出来ます。パン職人さんたちの努力のたまものですね。先人の努力の積み重ねで今日があるのです。

「丸十ベーカリー」、あるいは「丸十製パン」といった「丸十」ブランドのパン屋さんが東京近郊にいくつか見られます。その丸十グループの一軒が、高円寺北口、駅からすぐのところにあります。高円寺中通り商店街、庚申通りとの交差点、駅から実質徒歩2分くらいですね。
 そのお店の名前は「丸十ベーカリー・ヒロセ」。創業1925(大正14)年の「高円寺丸十パン」の伝統を受け継ぐお店です。高円寺駅が出来たのが1922(大正11)年ですから、開業当時は田圃や畑の中のお店、という感じだったのでしょうか。昭和10年の地図を見ますと、「丸十パン屋」は今の場所にそのまま掲載されています。中央線沿線基準では、まずは立派な老舗と言えるでしょう。

丸十のお店は、丸に十の字をトレードマークにしていますが、薩摩や島津さんとはまったく無関係。そもそもの創業者、山梨県塩山出身の田辺玄平さんの家紋に由来しています。実はこの田辺さん、日本における「イースト菌による製パンの元祖」なのです。
 彼は1901(明治34)年、アメリカに渡り、パンと出会いました。その美味しさ、胃への負担の少なさ(彼は胃弱だったとか)など、すっかりその魅力にとりつかれ、製パン技術を修行。1910(明治43)年に帰国すると、欧米式の培養イースト菌による製パンの研究に取り組みました。「あの美味しさはイーストでなければ出来ない」という決意からです。

それまでの日本のパンは、発酵のために米麹を用いていました。銀座・木村家のあんパンは、パン生地を作る際に米麹(酒種酵母)を使っていることで、独特の風味を出しています。あんパンならそのほうが良いのかも知れませんが、ふっくらした主食としてのパンとなると、どうしてもイースト菌による製パンでなければダメ、と考えた田辺さん。試行錯誤の研究の結果、温暖湿潤な日本の気候風土にあった、「マジックイースト(ドライイースト)」による製パン技術を確立。1913(大正2)年、東京市下谷区黒門町に食パン製造工場を創設しました。黒門町といえば、1888(明治21年)に日本最初のコーヒー店「可否茶館」が出来たのが西黒門町だったということで、当時は流行の発信地だったようです。

当時の社訓?は
  一、食糧問題の根本的解決はパン食の普及にあり。
  一、パン食の普及はパン製造法の改善にあり。
  一、パン食に慣るるは国民の義務なり。
だそうです。
明治生まれの男の情熱と気概が、胸を打つではありませんか。
ここでいう「食糧問題」というのは、1918(大正7)年、富山県に端を発する本物?の「米騒動」などのことです。米不足は深刻で、当時大消費者をかかえていた陸軍でも、1920(大正9)年にパン食を導入しています。

田辺さんの偉いところは、その製パン技術を独占しなかったこと。技術を学ぼうと全国から集まった弟子たちに、惜しみなくその技術を伝授したのです。
そればかりか『最新麺麭製造法』(東京割烹講習会・大正8年)という製法書まで出して、広く周知を図っています。こういう、技術・知識を「抱え込まない」人、尊敬します。ちなみに「麺麭」はパンです。

田辺さんのモットーは「親睦と共栄」。その意志を継いだ弟子たちは田辺家の家紋を商標に掲げ、文字どおり「のれん分け」する形で各地で開業しました。

1925(大正14)年に「高円寺丸十パン」を創業した、雨宮平三郎さん(田辺玄平さんと同じく山梨出身)も、そうした「のれん分け」組の一人です。いまのお店は、さらに雨宮さんから技術を伝承した、廣瀬さんが経営されています。
 「丸十ベーカリー・ヒロセ」は、保存料・着色料等を一切使用していない、安全安心のパン類を提供しているお店として、地域の人たちに愛されています。丸十ヒロセのパンを用いている喫茶店も、高円寺界隈には数多くあります。ともかく何でも安くて美味しい。ふつうの食パンもふっくらしてクリーミー、香ばしい小麦の香りがたちます。気さくな調理パン(惣菜パン)も厳選素材の安心できるもの。洋菓子も安いのに本格派。杉並区内のいくつかの小中学校の給食にも採用されているとか。いやぁ、納得ですね。

昭和の時代そのままの店内に入ると、店員さんがにこやかに試食のトングを渡してくれますし、温かいコーヒーが「ご自由にどうぞ」。店先には各種詰め合わせの「お買い得パン」。なんとも心あたたまる、「町のパン屋さん」の代表のようなお店です。それも、もともとは田辺玄平さんの「親睦と共栄」の考え方が具現化したものなのかもしれません。良いなぁこういうお店。
「夜行性人間の街」高円寺らしく、夜11:30まで開いているのもスゴイっちゃぁ凄い。しかも年中無休。

地元に愛され、地元を愛する社長さん。高円寺名物「阿波踊りサブレ」も考案、好評発売中(5枚420円)です! 「阿波踊りサブレ」は高円寺駅のコンビニ「ニューデイズ」でも売ってます。でも駅徒歩2分なので、ぜひ店舗まで行かれることをお勧めします。
皆様もぜひご賞味あれ。

公式サイト
http://www1.ttcn.ne.jp/~hirose/





 馬鹿&阿呆
     <2009/8/24(月)>

 今回は前置きなし。高円寺といえば阿波踊りです。
阿波踊りは、その名が示すように、阿波の国は徳島の祭りです。
阿波踊りの掛け声と言えば、
「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ。♪踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々♪」
というフレーズの『よしこの』が有名です。こういうフェスティバルは、確かに「見る」よりも「踊る」、参加することで楽しさが倍増します。普通の盆踊りだってそうですよね。見ているよりも、勇気を奮って踊りの輪に入り、見よう見まねで踊っていると、本当に心ウキウキで楽しくなって参ります。踊らにゃ損々、です。

もともとは全国各地にある、民間習俗としての盆踊りに過ぎなかったようですが、江戸時代、徳島藩が成立した後に今のように盛んになったようです。盛り上がりが一揆につながるからと、禁止された時期もあったということですが、どうなんでしょう。民衆のエネルギーを発散させる場を作り、「ガス抜き」する機会を作った方が、一揆を防ぐような気もしますが…。実際、そんなところが発祥・推奨の由来なんじゃないかと思います。世界中にある熱狂的なフェスティバルは、たいていそんな意味合いを持っていますからね。

徳島の阿波踊りが成功した理由の一つが「連」単位で踊ることによる競争心の高まりでしょう。町内毎の御神輿がぶつかり合う「喧嘩祭り」みたいのもありますが、「連」ごとに踊りの技で競うという、平和的かつ文化的な競争は、見事に狙い的中のように思います。町内や会社、さまざまなグループを背景として、今では1000もの「連」があるそうです。以前、私の知り合いに徳島大学医学部の学生さんがいましたが、医学部生の「連」は「竹の子連」と言うそうです。なぜかと聞いたら…
「タケノコは、やがて『ヤブ』になるから」
ですって(笑)。

徳島市の阿波踊りは、毎年8月12日から15日までの4日間、開催されます。 いつも100万人以上の人出を数え、今年2009年も136万人集まったとか。いや、すごいイベントですね。今年の人出が例年になく多かったのは、「高速道路1000円」の御利益もあったと思われます。徳島に経済効果があったら良いのですが…。
 さて高円寺の阿波踊り(正式には「阿波おどり」)ですが、これもまた、今では本家をしのぐほどの集客数だそうです。確かに人口の多い東京であることと、交通の便などを考えれば、高円寺のほうが人を集めやすいという側面もあるでしょう。けれども、(徳島よりは)歴史のないイベントに、これだけ人が集まるというのは、実に大したものだと思います。

高円寺の阿波踊りは、 1957(昭和32)年、街おこしのために発案されたものです。高円寺駅の南口、南西に伸びるアーケードが「パル商店街」ですが、この商店街に「青年部」が出来たのが、この年のこと。その景気づけに考案されたイベントだそうです。
 営業的見地からも、人出が少ない8月の対策としてイベントが模索されましたが、そのヒントとなったのは、お隣、阿佐ヶ谷の七夕祭り。阿佐ヶ谷の七夕も商店街の人寄せイベントでしたが、これが1954(昭和29)年に始まり大成功。それに刺激されて「高円寺でも」ということになったそうです。

形に残る「文芸路線」の阿佐ヶ谷に対して、高円寺は無形の「パフォーマンス路線」。…ということなのかどうなのか、考えられたのが、徳島の阿波踊りを参考とした、その名も「高円寺ばか踊り」でした。なんとまぁ、すごいネーミング(笑)。「踊る阿呆」の「阿呆」を、関東風に「ばか」としたのでしょうかねぇ。

ちなみに、「踊る阿呆に見る阿呆♪」の『よしのこ』は、本場徳島では必ずしもメジャーな掛け声では無いとか。多いのは「ヤットサーヤットサー」だそうです。また、江戸時代、お殿様の前を通るときは、さすがに遠慮して「踊る阿呆に踊る阿呆」として、「見る阿呆」とは言わなかったとか。本当かな?

さて、パル商店街青年部としては、本場の阿波踊りは知る由もないこと。曲は『佐渡おけさ』、演奏はチンドン屋さん、適当に「そりゃそりゃ」と、パル商店街を踊り歩いていたそうです。まぁ「ばか踊り」ですからね。そんな感じですから、第1回の見物客は2000人。それでも大したものだとは思いますが、阿佐ヶ谷にはかないません。継続はどうなることかと危ぶまれましたが、一部有志の熱心な努力で何とか続けることが出来ました。

ここで偉いなぁと思いますのは、青年部は「このまま『ばか踊り』じゃいけない」と思ったことです。本場徳島の正調『阿波踊り』を勉強し、少しでもきちんとしたものに近づけたい。そういう意志を持ち始め、東京にある徳島県人会の方から習うことになったのです。 こうして踊りの技を磨き、「これならば本場徳島の方々にもお許しいただけるだろう」と、1963(昭和38年)、ついに「高円寺阿波おどり」を名乗るようになりました。
 さらに2年後には、パル商店街から青梅街道まで続く「ルック商店街」も参加。会員が直接徳島に、阿波踊り見学にも行っています。こうした真摯な研究熱心さは着実に実を結びます。1967(昭和42)年には中央線が高架化して、踊りの舞台は北口にも進出。そしてこの年、28万人の見物客を迎えるイベントにまで成長したのです。

高円寺阿波おどりは今や、単なる商店街の振興イベントではありません。見物客は120万人。杉並区、いや東京を代表するイベントのひとつとさえ言える規模になっています。こうしたことの背景には、高度経済成長と中央線の発展の機運に乗じた、という側面もあるでしょうが、街の発展を真剣に考える人たちの、真面目に取り組む姿勢がイベントの成功を支えたことは間違いありません。そのことは、阿佐ヶ谷の七夕もまったく同じ。中央線人の面目躍如、と言えるでしょう。

今年は最終日が、何と総選挙と重なってしまいました。踊り手が着替えをする区立小中学校の体育館が、投票所になったりする関係もあり、スタッフは何かとご苦労が多いと聞いています。けれども今や高円寺と言えば阿波踊り。街をあげての協力体制で、乗り切る準備は万端だそうです。
 29日(土)には、テレビ東京の『出没!アド街ック天国』の放送もあるとか。ここはひとつ、テレビで「見る阿呆」とでも洒落込みますか。





 ちんちん電車
     <2009/8/28(金)>

 ここにきて暑さがぶり返しつつあります。
いま高円寺は、明日・明後日に控えた「阿波踊り」で暑いが上にも熱く盛り上がっております。今年はどれだけの人出を数えるでしょうね。「アド街ック天国」(テレビ東京)の実況放送もされるとかで、ますますエキサイトしております。中央線沿線がクローズアップされるのは、良いこと良いこと♪

さて。
数年前に『ALWAYS〜三丁目の夕日〜』という映画が大ヒットしましたね。私も見ました。「人の優しさ、心のふれあい」をメインテーマにしていて、いかにも泣かせようという魂胆が見えましたが、私はまんまと嵌り、ボロボロに泣いてしまいました。「不治の病」とか「特攻隊」とか、「悲劇」で泣かせようと言う映画ではぜんぜん泣かないのですが、「やさしさ」で泣かせようとする、いわゆる「人情もの」には弱いんですよ。まぁ私も日本人ということなのでしょうか。数年後に「ALWAYS 2」が出来ましたが、これはだめでした。心情をそのまま言葉で口にしてしまうところはなんとも浅はか。日本人としてはちょっと…な出来でした。

「ALWAYS 1」のほうで、子どもたちだけで港区三田のあたりから高円寺まで出かけるシーンがありました。「高円寺、遠いなぁ」と言いながら出かけていましたが、「あれ?」と思われた方もいたのではないでしょうか。「高円寺に都電なんかあったのかな?」と。

この映画、細かい考証をきちんとしているのがウリで、高円寺を通る都電は、映画の舞台となった1958(昭和33)年当時には実在していました。
 これが「都電14系統・杉並線」。新宿〜荻窪間の青梅街道の上を走っていました。ちょっとマニアックになりますが、映画当時の停留所名を列記してみましょう。

新宿駅前・柏木一丁目・成子坂下・本町通二丁目・本町通三丁目・
鍋屋横丁・本町通五丁目・本町通六丁目・高円寺一丁目・高円寺二丁目・蚕糸試験場前・
杉並車庫前・馬橋一丁目・馬橋二丁目・阿佐ヶ谷・杉並区役所前・成宗・天沼・荻窪駅前

中央線の南側、青梅街道あたりに土地勘のある方なら、「ああ、あの辺だな」とご理解いただけるのではないでしょうか。『三丁目の夕日』において、子どもたちが母親を訪ねるシーンで乗降する停留所は「馬橋二丁目」。飯田橋、新宿と2回乗り換えて来たようです。この「馬橋二丁目」は、現在の東京メトロ「新高円寺」駅付近にあった停留所です。
 もともとの原作マンガでは、高円寺という具体的な地名がなかったのに、なぜ高円寺にしたのか。それは知る由もないですが、この作品の山崎貴監督は、新高円寺駅近くの「阿佐ヶ谷美術専門学校」の卒業生ですから、そのあたりに土地勘というか、親しみがあったのかも?

映画では、実の母が会ってくれず、帰るお金のない子どもたちが、大きな川の水門に座って泣く、というシーンがありました。あれは違和感が大有りでしたね。高円寺にあんな大きな川(運河?)なんかありませんからね。ロケ地の岡山県倉敷市で雰囲気の良い物件を見つけ、急遽採用されたのではないかと思います(倉敷市の玉島港橋という橋なのだそうです)。
 はじめの脚本では、泣く場所は「水門」でなく「国電のガード下」だったそうですが、そのほうが東京、中央線らしさは出たように思いますよ、私は。ドドンガドン、ドドンガドンと国電の走るガード下。東京ならではのうらぶれ感、心細さが表現できたのでは?

あ!!
そうでした。高円寺辺りの中央線高架化工事が完成したのは、1966(昭和41)年ですから、映画の舞台となっていた昭和33年当時は、「国電のガード下」は無かったのでした。それで脚本を変えたのか…なるほど納得。

ちなみに、映画では子どもたちは15円くらい持っていました。当時は片道こども7円だったようですから、二人往復で28円。ちょっと足りなかったのですね。だがちょっと待って欲しい。当時の都電は乗り換えが当たり前だったのですが、それに際して乗り換え運賃なし、目的地を車掌さんに告げるだけの「自己申告」制でした。ですから車掌さんに言えば、タダでも乗れたはず。これも当時の大らかさを表す面白いエピソードだと思います。

さて都電杉並線ですが、これはもともと都電ではありませんでした。もともとは西武軌道という会社が1921(大正10)年に開業した路線で、その後、武蔵水電、帝国電燈に合併し、1922(大正11)年に帝国電燈から西武鉄道に譲渡されて「新宿軌道線」になった、という歴史を持ちます。
 関東大震災を経て路線沿線は急発展しました。そして1938(昭和13)年、西武鉄道から東京地下鉄道に経営が委託され、さらに1942(昭和17)年に東京市に移管されて、ここで「市電」になったわけですが、1943(昭和18)年に「東京都」制となったため「都電」に。正式に経営権が西武鉄道から東京都に移ったのは、戦後の1951(昭和26)年のこと。それ以後「都電杉並線」になります。相当複雑な歴史ですね。1956(昭和31)年には、荻窪駅前停留場が、駅の南から北に移動しています(天沼陸橋が完成した事による変更)。

その後、東京オリンピックに向けて、東京は交通網が急速に整備されます。杉並線の走る青梅街道の地下に、営団地下鉄丸の内線の延伸である「荻窪線」が全線開通したのは1962(昭和37)年の1月。これは完全に競合路線になるため、都電杉並線は、ほぼ2年後の1963(昭和38)年の12月、ついに廃止されました。

映画の中では、昭和33年頃の人情を甘く語っていましたが、現実にはかなり過酷な時代でした。もちろん家庭の優しさがあり、子どもたちは純朴でしたが、実は当時の少年凶悪犯罪率(人口あたり)は、現在よりも極めて高かったのが事実です。法務省の『犯罪白書』によれば、少年の凶悪犯罪は、1960年代は2000年代の約4倍の件数。高度経済成長は、ただ甘く優しいだけの感情ではやっていけない時代でもあったのです。人間はそう変わるものではありません。そういう意味で映画はあくまでもフィクション。「あのころは良かった」だけではない、客観的な認識も大切です。
 映画でも、高円寺の和菓子店で子どもたちは、冷たくあしらわれてしまいます。でも何もそれを高円寺にしなくてもよかったんじゃないか!!と、中央線びいきは思ってしまいます。人情味豊かな中央線人なら、母子対面は難しくとも、せめて饅頭の一つと帰りの電車賃くらい渡すんじゃないかなぁ…。





 ザ・テント
     <2009/9/19(土)>

 高円寺は、よく下北沢と比較されます。両者に共通するのは、いずれも古着・雑貨など、若者消費生活の拠点であることとと、演劇人や各種のパフォーマーが多く住み、彼らが独特の表現文化を展開している、ということでしょうか。高円寺の街では、楽器を持ち歩く人と出会う率が異様に高いのは、誰もがすぐに気がつくところ。もっと言えば金髪率・モヒカン率・入れ墨率も高いですね。何かを「表現したくて仕方がない」人ばかり、と言えると思います。

私個人の印象ですと、同じようにゴチャゴチャした町並みを見せながらも、下北沢のほうが何となく(本当に何となく、なんですが)リッチでお洒落な印象を受けます。高円寺も下北沢も、新宿と直結しています。高円寺は中央線で6分、下北沢は小田急線で7分(急行)と、ほぼ等距離にあります。新宿の、猥雑とも言える混沌とした巨大なエネルギーが、二つの街に均等に注がれているわけです。けれども下北沢の場合、そこに井の頭線によってもたらされる、渋谷のエネルギーが加わるところに、両者の違いが生まれている原因があるのではないでしょうか。

以前、下北沢にあって高円寺にないものとして、「劇場」が挙げられていました。下北沢には「本多劇場」という有名な小劇場があって、多くの演劇活動が行われて来ました。下北沢に本多劇場がある、というよりも、本多劇場があるから下北沢がある、とすら言えそうな気がするほどの存在感です。1982(昭和57)年以来、「演劇の街・下北沢」の象徴的存在として君臨しています。昨日お話しした、前進座のような大きな劇団によって演じられる演劇よりも、小劇場演劇と呼ばれるジャンルが、現代の若者の心を捉えていることは間違いないでしょう。今はお笑いブームですが、そうした「芸人」さんも、ある意味で小劇場演劇のコメディアンという表現が出来ると思います。

それに対して高円寺には、小さなライブハウスは数多くあっても、本多劇場のような劇場がありませんでした。表現者は多くとも、発表の場が地元にないことは悲しいことです。そこで今年2009年の5月に、多くの人たちの期待を担って完成したのが「座・高円寺」。中央線の下り電車、高円寺にさしかかる手前の環七を過ぎたところ、進行方向右側の線路沿いに見られる、焦げ茶色の「サーカスのテント」みたいな妖しげな建物、あれこそが「座・高円寺」なのです。

「座・高円寺」は、正式には「杉並区立杉並芸術会館」と言います。公共の施設ですから、
「演劇やダンスなどの優れた舞台芸術作品の上演、ワークショップやレクチャーなどの教育普及活動、国内外の劇場とのネットワーク事業を軸に、芸術文化の振興を図るための多彩なプログラムを展開するとともに、地域の皆さんによるさまざまな芸術文化活動や交流を支援してまいります。」(同館公式webサイトより)
という、いかにもな理念によって運営されています。また、高円寺名物「阿波おどり」の練習活動拠点、という側面も併せ持っています。さらに今や「高円寺3大祭り」のひとつともなった「高円寺フェス」の会場のひとつにもなるとのこと。今年の「高円寺フェス2009」は、11月7日・8日の開催です。

※今年の高円寺フェスには、大槻ケンヂ、みうらじゅん、泉麻人という、中央線文化を語らせたら止まらないメンバーによるセッションもあるとか。これは要チェック。

ちなみに。「高円寺3大祭り」というのは、「座・高円寺」が出来た今年から、高円寺の人たちが勝手に盛り上がって言っている名称。夏の「阿波おどり」、秋の「高円寺フェス」は従来もありましたが、今年から「びっくり大道芸」というのが始まったのです。今年はゴールデンウイークの5月2日と3日に開催。「座・高円寺」はもちろん、駅の南北、あちこちの商店街で、国内外の有名なアーチスト30組以上による、多彩なパフォーマンスが繰り広げられ、大成功でした。

私は、正直申し上げて演劇文化には疎いので、中身については何も語ることは出来ないのですが、「座・高円寺」の外見については、度肝を抜かれると同時に、感銘させられています。建築中、いったい何が出来るのだろうと車窓から眺めていました。以前、「高円寺会館」という地味な地味な区民会館があったのですが、これが取り壊され、次第に出来上がっていく建物の不思議なフォルム。鉄板を継ぎはぎしたテントのような姿に、最初は仮設のものかとすら思ったのですが、いや、これが完成した姿。曲面鋼板の接合で作られている構造で、これ、さぞや施工が大変だったことでしょう。

物見高い私としましては、さっそく高円寺駅で降りて行って参りました。この目で確認して参りましたが、いやもう、スゴイ。壁面の各所に丸い穴窓が開いていて、そこから太陽の光が木漏れ陽のように射し込み、建物の中は水玉・水玉・水玉…。「水玉模様の魔術師」草間彌生さんもビックリ。床にも大小さまざまな水玉模様が広がりますが、これは天井のダウンライトを工夫して演出しているようです。

この水玉はスポットライトをイメージしているのか、若き演劇人の希望の光、巨人の星?を表しているのか。とにもかくにも斬新で、お役所の仕事とは思えない出来栄えです。 劇場空間は、演目によって自由に舞台・客席形状を変えることができるとのこと。その変幻自在さ&グニャグニャした外観&水玉模様から、巨大な「ウミウシ」を連想するのは私だけでしょうか。あ、アニメ『風の谷のナウシカ』に出てくる「王蟲(おうむ)」にも似ているかな? 2階にある(ものすごく雰囲気が良い)カフェの名前が「アンリ・ファーブル」なのは「虫」つながりかも???

設計は伊東豊雄さん。この方は「多摩美術大学図書館」も設計されていて、私も何度か見たことがあります。やはり曲面を多用され、多くのアーチが重なり合って織りなす美しさは、また格別。好き嫌いはあると思いますが、私としては「天晴れ」な設計だと思います。この「座・高円寺」は、あえて閉鎖的な「見せ物小屋のテント」のような外観を見せることで、
「あの妖しい建物は何だろう」
「中には何があるんだろう」
と思わせる「吸引力」は大したもの。あの存在感だけで「高円寺」という街そのものが、中央線の他の駅から際だって見えるように思えます。

おおやけが造る「ハコモノ」に批判が集まりやすい昨今。「座・高円寺」は単なるハコモノではないように思います。いえ外見がハコっぽくないとか、そういうことではなく(笑)。地域文化の拠点として「街を造る」と言うことにおいて、ハコモノの果たす役割は、やはり重要だと思います。この「座・高円寺」にしても、いろいろ批判する方はおいででしょうけれども、私は税金の使い方として、決して間違っていないと思います。人間はパンのみにて生くるものにあらず、です。

これから、この建物が高円寺、そして中央線文化に与える影響は計り知れないと思います。下北沢の本多劇場は、民営だからこその自由度があると思います。その点、公営の「座・高円寺」は、なにかと制約があるかもしれませんが、出来うる限り「軟体動物的」な、グニャグニャした自由度を保ちながら、しっかりと育っていって欲しいな、と思います。





 バイタリティ・バロメータ
     <2009/10/8(木)>

 今日は台風18号の影響で、中央線が完全にストップいたしました。
中野から中央線に乗り入れている地下鉄東西線は、江東区から湾岸沿いの高架を走るため風の影響を受けやすく、すぐに運休となります。すると中央総武線各駅停車にも影響が及び、ダイヤが乱れます。今日もまず東西線から止まり、やがて中央線、山手線、京浜東北線と波及し、首都圏のJRは全面運休になってしまいました。
 今朝、私は中央線の下りに乗りましたが、吉祥寺駅の手前で急停車。「緊急停車の指示を受信しました」とのことでしたが、5分くらいで「この列車は吉祥寺止まりとなります」というアナウンスのもと発車。停車している間、横風で車輌がユラユラと揺れ、良い気分じゃなかったですね。高架は風に弱いんだなぁと、つくづく思いました。

一昨日、久しぶりに高円寺界隈をブラブラしてきました。いやぁ、いつきても楽しい街です、高円寺。特に目玉となる名所旧跡があるわけではないのですが、商店街の充実が何と言っても素晴らしい。銀座のウインドウショッピングである「銀ブラ」ならぬ「高ブラ」。いや「円ブラ」のほうが語呂が良いかな?ともかくそぞろ歩きが楽しいのです。

思うに、商店街が活性化しているところは、街自体が生き生きとしています。街のバイタリティを計測するバロメータが、商店街なのだと思います。

高円寺駅周辺には駅の南北に、7つもの商店街があります。一番有名なのが北口に大きなサインゲートのある「純情商店街」。その西側で南北に長く続く「庚申通り商店街」。駅の北西に伸びる「中通り商店街」とその延長「北中通り商店街」。南口のアーケードは「パル商店街」とその延長(アーケード無し)「ルック商店街」。そして駅の北東方向は「あづま通り商店街」。それぞれが個性豊かなのです。

「純情商店街」は、ねじめ正一さんが子どもの頃の生活を描いた小説、その名も『高円寺純情商店街』で有名です。ねじめ正一さんのご実家は、かつてこの商店街で乾物屋さんを経営されていました。ご一家やご近所の、いかにも中央線的な、人情味と、そこはかとなく漂うインテリっぽさが融合した生活が、生き生きと描かれていました。
 この商店街、もともとは「高円寺銀座商店街」という名称でしたが、小説が1989(平成元)年に第101回直木賞を受賞したことで一躍有名になりますと、名称(呼び名)をズバリ「純情商店街」に変えてしまいました(商店会の名前は「高円寺銀座」のまま)。
 最近聞きませんが、中年女性の声、独特のアクセントで「高円寺純情商店街、お茶の金子園」とか、商店街各店の広告アナウンスをがんがん放送?していましたっけ。いかにも下町チックで、ほのぼのとしていました。
 ちなみに、ねじめさんのお店は、今は阿佐ヶ谷のパール商店街に移り、民芸品店になっています。

「庚申通り商店街」は北は早稲田通りまで達する長い商店街です。道幅が狭く、そのゴチャゴチャ感が何とも言えません。「純情」が案外と短く、しかも最近はチェーン店系のお店が増えつつあることから、昔ながらの風情は、むしろ「庚申通り」のほうに軍配が上がるかも。チェーン店はほとんど無く、むかしながらのお店も頑張っています。なかでも「天名家総本家」という和菓子屋さんは、創業1923(大正12)年。高円寺駅開業の翌年です。ここは高円寺名物「お狩場餅」で有名で、これは大きなみたらし団子の中に漉し餡が入っている、といったもの。江戸時代にこの周辺が将軍家の「お狩場」だったことに由来するそうです。
 ちなみに、通りの「庚申」という名称は、この通りに「庚申塔」があるからです。正徳6(1716)年に高円寺村の人々が建立した、不見・不聞・不言の「三猿」が刻まれている塔が現存しています。庚申信仰は平安時代からありましたが、その頃は「体内の虫が庚申の夜に抜け出して、人の悪行を天帝に密告する。それを防ぐには庚申の夜は眠らないこと」というもの。それが時代を経るに従って、無病息災などを祈願するものとなり、「夜眠らない」という部分が一人歩きして「夜のお楽しみ♪」の意味合いも加味され、江戸時代には盛んに信仰され、各地に庚申塔が建立されました。ここの庚申塔もその一つです。

「中通り商店街」と「北中通り商店街」は、高円寺の中でも特徴ある商店街。それは駅の近くにある、数軒のピンサロ(ピンクサロン)の存在ゆえのこと。いまでは中央線沿線も「その手」のエロチックなお店はかなり減りましたが、ここ高円寺中通りでは、いまも健在です。歌舞伎町にあるような派手なドピンク看板の前を、ベビーカーを押したお買い物の主婦や、通学の女子高生が平気で歩いている光景は、なかなか余所では見られないものです。このピンサロゾーンは30mも続かずに終了し、そのあとはごく普通の商店街となるのもまた一興。特徴は「東京における沖縄料理店の嚆矢」とも言える「抱瓶(だちびん)」グループの店舗がいくつもあることで、いずれも毎晩大繁盛です。

「パル商店街」と「ルック商店街」は、若い人には一番人気かもしれません。このあたりには古着屋さんがたくさん集まっていて、下北沢の雰囲気を醸し出しているのです。特に桃園川の暗渠を越えて、アーケードが無くなった「ルック」のほうに、その雰囲気が色濃く出ているようです。私くらいの年代で「古着」というと、リサイクルというか、安物買いのイメージがありますが、高円寺の古着屋さんは、欧米の、いわゆるヴィンテージ物というのでしょうか、えらく高価なものを販売されています。これはオジサンにはわからない世界。そのほかにアクセサリーや靴屋さんが並び、とても良い雰囲気を醸し出していて、休日は若い人で賑わいます。そうそう、カレーが美味しい有名なカフェ「七つ森」もここにあります。

「あづま通り商店街」はちょっと地味ですが、古書店やカフェなど、ちょっとアカデミックな上品さのある、そうですね、阿佐ヶ谷っぽい味付けの利いた商店街です。中でも「古本酒場コクテイル」の存在が、いぶし銀の輝きを、この商店街にもたらしているように思います。ここでは古本に囲まれ、本を読みながらお酒が飲めるほか、「文士料理」と呼ばれる、作家が趣味で創作した料理などを食べることが出来ます。もともとは国立(くにたち)の「コクテイル書房」という古書店だったそうですが、2000(平成12)年に高円寺に移られたとか。こういう「独特」なお店が受け入れられる土壌こそ、高円寺の良さだと私は思います。「独特」ですが、一見さんにも敷居が低い良店です。
 それから、あづま通りには洋食屋さん「キッチン南海」があります。「キッチン南海」は、1966(昭和41)年創業の神保町(本店)のほか、下北沢、千歳船橋、井荻など20店舗が「のれん分け」として存在しており、高円寺もその1軒。フライ物などハイカロリーなメニューが人気で、その存在こそが、「高円寺が若者の街であること」の象徴とも言えますね。

商店街ではないのかもしれませんが、駅の西側ガード下に長く続く飲食街が「高円寺ストリート」。日中に歩くと軒並みシャッターが下り、なんとなく異臭もして「ああ、高円寺もついにシャッター通りが生まれたのか」と思いがち。ところが夜7時も過ぎる頃から、この通りは目覚めます。香港の屋台街とでも申しますか、一種猥雑で異様なバイタリティに溢れる飲食街に豹変するのです。「高円寺=日本のインド」と呼ばれるきっかけになったインド物産「むげん堂」のお香のかほりも、一層東南アジア感を強めてくれます。
 その雰囲気は実際に見ないとご理解いただけないでしょうが、異様ですが危険な臭いはいたしませんので、千鳥足でもまずは安心でしょう……たぶん。

やはり高円寺、良いですね。
中野でもない。阿佐ヶ谷でもない。やはり高円寺ならではの雰囲気が漂っています。ふつう世間がイメージする「中央線らしさ」が、良くも悪くも最も色濃く顕れている街、とでも言うのでしょうか。ニュースでは中央線も動き出したそうですし、今宵は高円寺で一杯やろうかなぁ〜。





 寒くなると心配です
     <2009/11/28(土)>

 高円寺の駅北口徒歩2分のところに、私と深ぁ〜〜い関係にあるBARがあるのですが、このたび、南口徒歩2分にも、またまた深ぁ〜〜い関係の割烹の店が出来てしまいました。いえ、新しく出来たのではなく、もとからお店はあったのですが、今回、新たに私と深いご縁が出来た、ということです。なんのコッチャ(笑)。昨日の夜も、南口・北口の順に巡検?して参りました。

高円寺は、一言で言えば「若者の街」で、ロックミュージシャンが似合う街です。この割烹料理店は、30代半ばのハンサムなお兄さんが一人で切り盛りしている店なのですが、入り口も店内も、それはもう「高円寺高円寺」した雰囲気で、オジサンはちょっと違和感を感じるほど。この店主、実はダンサーであり芸術家でもあるというマルチな才能を持つ人。「たけしのどこでもピカソ」という芸術家の登竜門みたいな番組にも出たことがあるとか。それでいて板前修業をみっちりやって来た人なので、腕も目利きも確か。魚介を中心とした、実に美味しい酒肴を出してくれます。週に2回は築地に仕入れに行っているんですから、これは本物。…でまた彼、今時ビックリするほど礼儀正しく言葉遣いも丁寧。ファンキーでパンクなノリとのギャップ。いやぁ高円寺、奥が深いです。

店内は狭く、カウンター7席、テーブルが2席×2で、収容人員11名。でも実際に11人入ったら窒息しそうな狭小空間なので、9人くらいが限界でしょうか。でも、この狭さがなんとも落ち着くんですよ。そう、ちょうどお茶室の「小間」のようなもの。二帖とか一帖半の狭い空間にこそ、落ち着きと「和」が生まれるんですね。思えば私の立ち回り先のお店、そういうところばっかりです。店主もその手の物件を探して、ここにたどりついたそうです。こりゃぁ素敵なお店と知り合いになれたなぁ。
ちなみにお店を紹介しているサイトは
http://www006.upp.so-net.ne.jp/koenji/106/k106.html

高円寺と言えば、先日に南口pal商店街にある居酒屋さんが火事になってしまいました。4名の方が亡くなられたそうで、実に痛ましい限り。心よりご冥福をお祈りいたします。 あのお店「石狩亭」、私も過去に何回か伺ったことがあります。店内は狭くはないですが、ゴチャゴチャしていて、「駄菓子屋の店先」が何より大好きな私にとっては好ましい空間でした。そう、私は「猥雑」な雰囲気が好きなんですよ。あ、「猥褻」じゃありませんので、勘違いなさらないように(笑)。
 けれども今回、そのゴチャゴチャしたディスプレイに引火して被害が広がったとか。悲しいですね。それに、油の炎に水を掛けてしまうという初歩的なミスが、最悪の結果を招いてしまったようです。このあたり、防火防災教育の不備、ということはあったのでしょう。これは残念なことです。

中野〜高円寺界隈は、中央線の車窓から見て判るとおり、小さな住宅や店舗が密集しています。道幅も狭く曲がりくねっていて、大きな消防車が入れないゾーンが随所に見られます。こういうところで火事が起きるとすぐに近隣に類焼し、それはもう恐ろしい「大火」になる可能性がありますから、何よりも火の用心には最大限の配慮が必要です。防火教育は、各家各店で徹底的に行われるべきだと、強く思います。

私の故郷、京都市内も、中野・高円寺に負けないほど(いえ余裕で勝つでしょう)ゴチャゴチャした家、いわゆる「京町家(まちや)」が軒を並べています。路地にはいると道幅は1メートルあるかないかの細道。当然ながら今の建築基準法からすれば、軒並み違法建築物です。これらの町家が建てられたのは明治・大正ですから、当時としては適法だったわけで、こういうように「かつては適法・今は違法」な建築物を「既存不適格」物件と呼びます。日本の住宅ストック5000万戸のうち、実に3割近く、1400万戸は「既存不適格」物件なんだそうですよ。

テレビ朝日の「劇的ビフォーアフター」という番組で、柱だけ残して完璧なリフォーム、というようなのを見かけますけれども、多くの人が
「あんなに手間掛けるなら、壊して更地にして新築した方が安くて早い」
という感想を持たれます。
 けれども、ああいう物件のほとんどが「既存不適格建築物」なので、一旦更地にしてしまうと建築基準法上、家が建てられない、あるいは建てられても、セットバックや建坪率・容積率の関係で、今までより2まわりくらいミニサイズになってしまう、という問題があるわけです。「既存不適格建築物」でもリフォームは認められていますから、あの番組のようなことは全国各地、日常茶飯事で行われています。

京町家もそのようにして今日まで保たれてきました。もしも大火があって焼け野原になったら、同じような建物は二度と再建できないのです。ですから京都市内に住む人々は、何よりも防火に気を付けています。今でも拍子木の夜回り「火の用心」の声は、冬の京の街に響きます。

京都のお隣、大阪城の天守閣は、現在、鉄筋コンクリート製。だから無意味だという人も居ますし私もそう思います(なにしろエレベーター完備ですからね)。でも実は、戦後に再建話しが盛り上がったとき、昔ながらの木造で作る案もあったそうなのですが、木造で二階建てより高い建物を建てることは(当時の)建築基準法上、出来ないことだったので、断念したそうです。始めっから「まずコンクリートありき」の議論ではなかったとのこと。

大阪と言えば、ミナミに「法善寺横丁」というのがあり、石畳の道幅2.7メートルに、ゴチャゴチャした「既存不適格」の店舗が密集していました。ここは「包丁一本、晒しに巻いて♪」の歌謡曲『月の法善寺横丁』でもおなじみですね。
 そのゴチャゴチャの魅力、猥雑な「なにわ情緒」に多くの人々は吸い寄せられ、栄えていました。それが2002(平成14)年、「中座」という古典劇場の解体現場からの出火が類焼し、法善寺横丁のかなりの部分(57軒中19軒)が焼けてしまったのです。さぁ大変。建築基準法からすれば同じモノは建てられません。この場合、「幅4メートル以上の道路に間口2メートル以上で接していない土地には建物は建てられない」「防火地区なので木造建築は原則不可」という法規が問題となりました。

けれどもあの地区に4メートル道路を引いてしまっては、「なにわ情緒」も何も無くなってしまいます。それを惜しむ声が高まり、作家の藤本義一さんらが呼びかけた「元の形で再建を」という署名が、なんと12万も集まりました。そうした声を受けて、大阪市は裏技を使いました。それが「連担建築物設計制度」。つまり今までの細い道路を届け出上は廃止にし、横丁全体をひとまとめの区画として扱うのです。そうすれば、その大きな区画は幅の広い道路とも接することになります。法善寺横丁全体が一つの敷地となるので、本来なら個々店の敷地に適用される建坪率・容積率の制限が、全体の敷地に対して適用されます。これで元の形に復元可能に。細い路地も、敷地内「通路」とみなされるので残すことができます。なんともまぁ、必殺技ですね。

こういうのは実に難しい問題です。当然ながら
「なんで法善寺横丁だけ脱法行為を認めるんだ」
「もしもまた災害が起きたら誰が責任をとるのだ」
という声もあります。それも正論。しかし人情としては法善寺横丁はあのままであって欲しい…。難しいですね。ですから火事はやっぱり出しちゃいけないんです。法善寺横丁の場合は、中座解体現場ガス爆発からの類焼でしたが、実は翌年にも。横丁内で別の火事を出していますし。必殺技で救われた法善寺横丁のお店の人たちは、ほんと、120%の防火注意義務があると思います。

東京では、いま、下北沢再開発問題で揺れています。同じようなゴチャゴチャした繁華街に、防災上の観点から太い道を開こうという公の動きと、これに反対する動き。これまた難しい。下北沢の場合、このゴチャゴチャした雰囲気は昔からのものではなくて、本多劇場が1982(昭和57)年に出来てからのものである、それ以前からの住民は、この雰囲気を必ずしも歓迎していない、という背景もあるので、話しが複雑。まったくの第三者である私が、あれこれ申し上げるのは双方に対して失礼でしょう。ただ「難しい問題」だなぁとは思います。

法善寺横丁の現在の街並みも、実は織田作之助の『夫婦善哉』(昭和15年)の頃からのものではなく、戦後のドサクサに生まれたもの。京町家にしても、江戸時代からのものではなくて、幕末の「禁門の変」で市中が一面焼け野原となった、明治より後に建てられたもの(多くが大正から昭和初期の建築)。埼玉は川越の「蔵造りの街」は、1893(明治26)年の川越大火以降のもの。「歴史的街並み」の「歴史」とは流動的なものである、ということは認識する必要があるでしょう。

……ま、何が言いたかったかと言えば、
「火事には気を付けましょう」
ということなのでございます、はい。
皆様も他人事と思わず、防火には細心の注意を。