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 荻窪


 荻窪北口再開発本格化
     <2009/7/13(月)>

 荻窪駅は改札口直結のルミネやタウンセブンのおかげで、案外とお洒落なイメージがあります。
なにしろ戦前は、公爵近衛文麿の屋敷「荻外荘(てきがいそう)」があったくらい、この地はハイソな街であったのです。関東大震災のあと、地盤強固な武蔵野台地に、政治家や華族、官員や軍人さんなどといった、当時の上流階級の人々が移住した、という経緯があるそうです。

ところが。
私のようなハイソでない者にとって、荻窪駅のイメージは「やきとりの匂い」でした。
昼間っから焼き鳥の匂いがホームに漂い、その匂いで「あ、いま荻窪だな」と気がつく経験をしたのは、私だけではないでしょう。

その匂いの根源は駅前にある焼き鳥屋さん「鳥もと」です。
何というか、バラック作りとでもいうようなディープな酒飲みには堪えられない外観を持つお店で、本当に昼間から立ち飲み状態で焼き鳥をほおばる人たちがあふれておりました。
また、この周辺には荻窪ラーメンの老舗「珍来」や、数年前に開店して人気の洋風立ち飲み「金魚」などがある魅力あふれるゾーンでした。

ハイソとは縁遠いこうした空間でしたが、再開発の手が入りました。
荻窪北口は以前からバスロータリーの建設など着々と再開発が進んでいましたが、ここにきて、ついにディープゾーンにもその波が及ぶことになったわけです。
「珍来」は2009年の7月6日に、57年間にも及ぶ営業を終え、閉店となりました。
「鳥もと」はすでに近所に二号店を開いており、現在の本店での営業も間もなく終了とのこと。
「金魚」は9月までとのこと。

たしかに交通問題や防災問題、私の知らないさまざまな問題があるのでしょうから、再開発はやむを得ないのかもしれません。
けれど、何とか、いまの「雰囲気」は残してほしいなぁと思います。

荻窪のホームに漂う焼き鳥の香り。
まもなく無くなってしまうんですねぇ・・・。





 リノベーション
     <2009/7/22(水)>

 鳩山(弟)前総務大臣が、立替を目前に控えた「東京中央郵便局」を建て替えようとした動きに対して、
「重要文化財の価値を有する建物を再開発で取り壊すのは、トキを焼き鳥にして食べるようなもの」
と発言したのは今年の2月のこと。あれから5か月、政界もいろいろありましたねぇ(しみじみ)。

日本郵政側は「高層ビルに建て替えることは既定の方針」と譲らず、結局、外壁保存部分の拡大という落としどころで鳩山前総務大臣も「トキを焼き鳥にして食わないで、剥製が残るような設計変更を」と発言し、決着を見ました。

この東京中央郵便局の保存問題は、なかなか難しい側面があります。
郵政民営化とも密接な関わりのある内容なので、政局がらみの思惑もあったでしょう。
また「なんでも保存」第一主義の「有識者」たちの考え方の是非、土地の有効活用をどう考えるか。都心の一等地を「単なる集配作業所」のままにしておくことはどうなのか。民間企業となる日本郵政の収益確保を国が邪魔して良いのか。
しかし日本近代建築史のエポックメイキング的な建物を、経済効率だけで簡単に潰してしまうことは文化的にどうなのか?
……私には正解が見つかりません。

さて。
リノベーションという言葉が、いま建築・不動産の世界で脚光を浴びています。
既存の老朽化した建物を建て替えるのではなく、大規模な改修工事を行って用途や機能を変更し、性能を向上させたり価値を高めたりすることです。
なんでも建て直しという風潮に一石を投じるものです。
また、それは共同住宅の建て替えの難しさや、今日の法令上の規制を免れるような意図もあります。都心一等地の古いマンションは耐震化を含むリノベーション工事を行い、「ヴィンテージマンション」という新しい看板をまとって、かえって高額で流通していたります。

前置きが長くなりました。
今回ご紹介するのは、荻窪駅から徒歩6分くらい。荻窪3丁目にある「西郊ロッヂング」です。
2階建てのなんともレトロな外観。
角部分は、給水塔様式とでもいうのか、緑青の渋い銅板による味のあるドームになっており、壁面には「グンヂッロ郊西」の金文字看板。
あ、もちろんこれは右から読むのです(笑)。
創業は1931(昭和6)年。元々、本郷で賄い付き下宿屋を営んでいた先々代のご主人が、関東大震災をきっかけとして荻窪に移転したのが始まりとか。荻窪をはじめ、中央線沿線の急速な宅地化は関東大震災が契機となっているのです。
下町地区の惨状と比べ、強固な武蔵野台地の上を通る中央線沿線は、震災の大きな被害を免れました。
杉並村1200戸のうち、建物の損害はわずかに10戸。死者はゼロ。そうした情報が伝わり、官員や軍人、サラリーマンといった中流以上の人々が競って中央線沿線に移住しました。

西郊ロッヂングの先々代も、そうしたことから荻窪に下宿屋を移転したわけです。当時、荻窪あたりはまだ畑ばかりの未開発地域。東京の西の郊外ということで、「西郊」と名付けたのでしょう。
ティーポットの蓋のようなドームが目立つ棟は、1938(昭和13)年に増築された新館です(よくここも昭和6年と思っている人は多いです)。単なる下宿ではなく、若いサラリーマンやお金持ちの子弟を住まわせるに相応しい高級下宿。作りつけのベッド、マントルピースも備え、食事はマントルピース横のダイニングでモダンな洋食だったそうです。
戦後に下宿屋をやめ、「割烹旅館西郊」に転身。東京オリンピックのときには海外からのお客様で賑わったそうです。

しかし老朽化は年々進みます。建て直すべきか否か。
しかし、この特色のある昭和レトロ建築はいまから同じようなものを作るのは困難であり、それに建坪率60%容積率200%の用途地域では高層マンションも建てられない。
なによりも先々代以来の愛着あるこの可愛い建物を壊すにはしのびない……。
そこでリノベーションが行われることになりました。

ドームのある新館部分が、なんと賃貸アパートに改修されたのです。屋内廊下に各室木質ドア。けれどもオートロックで各室バストイレ完備のワンルーム。むかしながらの中庭の風情も楽しめます。気になるお家賃は5〜7万円と意外にお手頃。話題性も高いので、入居者はひきもきらず、空室待ち状態とのことです。この家賃なら私も住んでみたいと思いますよ。
隣の旧館は、いまも引き続き「旅館西郊」として営業中です。大浴場のある和風旅館。これもまたリーズナブルで、素泊6,000〜7500円。
どうです。
そこいらのビジネスホテルなんかと比べても安いんじゃないですか?
それで(「高級」ではないかもしれませんが)雰囲気のある和風旅館。まわりは閑静な住宅街で静か。荻窪駅から徒歩6分。
なかなかのお勧めじゃないですかね。海外からのお客様など特に喜ばれると思います。

こういう形での建築物の保存と活用って素晴らしいと思います。
ワンルームアパート化に際しては、かなり変容させた部分があるでしょう。保存原理主義の方はそうしたことも許さないでしょう。けれども毀して建て直すということをせずに、出来るだけ形式を残して、時代に合わせてペイする形で古い建築を残していくことは、ベターな選択……いえ、今の時代ではベストの方法であったのではないでしょうか。
そうしたことを許容する雰囲気が中央線にはあふれていると、私は思います。

あ。
さっき日蝕を観測できました。薄曇りだったので肉眼でもまぶしくなく。
三日月状態でした。





 地名由来は難物です
     <2009/7/29(水)>

 夏はどうしてもさっぱりしたものが美味しく感じられますが、夏バテ防止には、たまにはカロリーのあるものも摂りたいもの。たとえば「てんぷら」なんかいかが?
てんぷら、美味しいですね。私は関西出身ですが、てんぷらは東京風の胡麻油できつね色に揚げたようなのが好きです。でも最近食べてないなぁ。
それにしましても、「てんぷら」って考えてみるとヘンテコな名前ですよね。
こういうものの名前の由来というのは必ず諸説あって、一定しません。中にはどう考えてもコジツケだろうと言うようなトンデモ説もありますね。
「てんぷら」語源で有名なトンデモは、江戸時代は天明年間の戯作者、山東京伝の説。

天竺浪人が「ふらり」とやって来て伝えたから「天ふら」、それが訛って「天ぷら」。

というものです。「天竺浪人」というのは、まぁ今で言う「ぷー太郎」みたいな意味合いです。
しかも「天麩羅」という漢字を当て、「天」は「あげる」、「麩」は「小麦粉」、「羅」は「薄衣」のことだと説明。てんぷらは、小麦粉を薄くまぶして揚げた料理であることから、この説明と符合しますよね。漢字的には何となく合っているように思ってしまいがちです。ここから更に派生して、もとは「天麩羅阿希(あぶらあげ)」と書いていて、その「阿希(あげ)」が省略されたのだ、などと主張する江戸人もいました。如何にも粋で洒落っけのある江戸っ子らしい、言葉遊びで楽しいですね。
実際の古文書記録では、天明(1781〜1788年)のはるか前、1669(寛文9)年の『料理食道記』に「てんふら」とありますから、京伝先生命名説はやはりデマのようです。

いま最もポピュラーな説はポルトガル語の「tempero」。これは「調理」という意味です。
あるいは、肉料理を避けて魚料理を食べる日を意味する「templo」から来た、という説もあります。
また、スペイン語の「tempora」、つまりキリシタンの「教会」で食べられていた料理から転化した、という説や、スペイン語「templar」(調味)説を支持する学者もおいでです。
……つまり、決定版の定説は、実は存在していないっていうことなんですよ。

実際はどうなんでしょうね。
そもそも南蛮渡来の室町時代の「てんぷら」は、どのようなものだったのか??
九州に行くと、いわゆる「薩摩揚げ」みたいなのを「てんぷら」と呼びます。これが元祖てんぷらだとしますと、京伝先生の「天麩羅」の当て字は通用しなくなってしまいますよね。幕末、嘉永年間の『守貞漫稿』には、上方では魚のすり身を揚げた薩摩揚げのようなものを「てんぷら」と呼び、江戸でいう「てんぷら」のことは「つけ揚げ」と言う、と書かれています。
よく「徳川家康は鯛の天麩羅を食べて死んだ」と言われますが、これは鯛をカヤの油で素揚げにして韮を掛けたもので、衣はなかったのではないかと言われています。

さてと。
中央線の話しにしなきゃ(笑)。
地名の語源もさまざまですが、荻窪駅の北西、青梅街道と環八の交差点が「四面道(しめんどう)」です。
ここは東京で車を運転する人なら多くの方がご存じの有名な交差点。交差点なので「四面道」。なんとなくそのまま納得してしまいそうですが、実はこの名前、もともとは「道」ではないらしいのです。

江戸時代、まだ環八はありませんでしたが、ここははやり交差点でした。そこは青梅街道3つ目の一里塚のある、その当時からも重要なポイントでありました(1つ目の一里塚は新宿追分け、2つ目は東高円寺駅前蚕糸の森)。また、天沼・下井草・上荻窪・下荻窪の4ケ村が接する地点という意味でも重要でした。
さて、ここがなぜ「四面道」なのか。「道」でないのなら「しめんどう」とは何か。
もともとは「しめん『どう』」ではなく「しめん『とう』」と濁らない読みだったと言われています。

この重要ポイントには秋葉神社という神社が祀られていました。そして周囲の4ケ村に向けて、四方を照らす高さ1間あまりの常夜燈があり、これが「四面燈(しめんとう)」と呼ばれていた、とされます。
交差点や地名を表現して
「あの四面燈のところ」
などと言い習わしているうちに、地点として正式名称になってしまった、ということですね。
この四面燈は1857(嘉永7)年に建立されたということですから、幕末のネーミングと言うことになります。
四面燈は昭和44年に、環八の道路拡張工事で撤去され、さらに西、荻窪警察署前の荻窪八幡境内に移され現存しています。
しかし、いまの「四面道」が、まさにぴたりの当て字になっていることから、交差点由来説がやがて大手を振ることになるかもしれませんね。

私は昔のことをいろいろ調べるのが仕事なのですが、こういう諸説の中から古記録古文書を整理し、x軸とy軸の交差する点を探し出すことが基本作業になります。

非常に面白い「捏造由来一人歩き」の例をご紹介しましょう。
中央線でなく武蔵野線ですが、まぁ同じオレンジ色の国電(古い?)ということで。

武蔵野線に船橋法典駅があります。中山競馬場のそばなので、競馬開催日は非常に混む駅です。
法典は地名としては消えていますが、駅名や学校の名称に残っています。
ここは宮本武蔵が精神修行の一環として?新田開発に従事した「法典ケ原」というところとされており、実際にここに行きますと宮本武蔵関係の遺跡?が多く残されております。

この武蔵伝説を素直に信じている方が多く、ネット上でもよく見かけます。
ところがこれはまったくのデタラメなのです。

小説家の吉川栄治が昭和10年に「宮本武蔵」を執筆していく中で、関ヶ原以東に出没した記録のない武蔵を関東に回遊させます。これは小説が好評で、連載期間が延長となったため、話をふくらませる必要が生じたため。関東の読者に親近感を持ってもらうための「営業上」のサービス?といった面もあったと思います。

さて、武蔵を活躍させるのにはどこが適当か。
精神修養を兼ねた新田開発ですから、何かそういった特徴ある地名はないか・・・。
吉川英治は「習志野(ならしの)」に着目しました。
確かに悟りを開くのには良さそうな、しかも雅やかな名称です。

吉川英治は
「武蔵に習志野の新田開発をさせようと考えているんだよ」
と、國學院大学予科講師であった樋口清之に相談しました。樋口先生は驚きました。
「習志野という地名は、明治6年の陸軍天覧演習に際して明治天皇より賜った「習志ノ原」に由来しています。江戸時代には存在していない地名です!」

あぶないところでした。
吉川英治は胸をなで下ろし、「では周辺に適当な名前の場所は・・・」と探したところ法典村というのが目に留まり「うん、それっぽい」ということで「法典が原」という地名を創作して、小説の中で武蔵に活躍させたのです。

この法典村は明治22年(甲武鉄道開業の年ですね)に3ケ村(藤原新田・上山新田・丸山新田)合併で出来たもので、江戸時代「法典」と書かれた古文書は存在しておらず、その名称の由来は不明とされています。
(合併前の3ケ村が新田開発されたのは1675(延宝3)年で、宮本武蔵が活躍した時代のずっと後年です)

ところが小説を事実と信じる人はどの時代にも多いもので、小説「宮本武蔵」がベストセラーになると、たちまち法典地区(昭和12年に船橋市となり村は消える)には各種の遺跡?やら伝説が続々と生まれ、「吉川英治先生の『宮本武蔵』に書かれたこれは云々」と、一人歩きを始めてしまったのです。
武蔵野線の駅が開業したとき、地名ではない「法典」を駅名にしたのも、武蔵伝説にあやかってのこと、と言われています。

この一連のエピソードは非常に興味深いもので、当事者である樋口清之先生はあちこちにそのことを書き、
「私が生きているうちはこうして訂正できるが、私がいなくなったらどうなるだろう」
とも述べています。

「宮本武蔵は千葉県に来たことがある」
と聞いたとき、その原典を訪ねなければなりません。
 「かの吉川英治先生が書いておられる」
 「由緒あるお寺に武蔵の供養塔がある」
 「土地の旧家に武蔵の描いた達磨の絵が残されている」
こういったものは何の根拠にもなりません。
出来うる限り、信頼できる文書を明らかにし、しかも複数の文書からラインを引いてその交差点を答としなければならないのです。
宮本武蔵(もともとかなり謎の人物ですが)が関ヶ原以東に出没した記録は全くありません。

最後に、中央線ネタで締めましょう。

宮本武蔵には実子がなく、伊織という養子をとりました。
武蔵に子どもが居なかったことを記録するために、中央線の駅に名を残しました。

それが武蔵小金井。 

むさしこがねい  むさしこがねぇ  武蔵、子が無え!

お後が宜しいようで・・・。 





 アニメの殿堂
     <2009/8/4(火)>

 政府が「国立メディア芸術総合センター」なるものを新たに建設し、ここに漫画やアニメ、ゲームなどを展示・収蔵するという計画が発表され、政局も絡んで大騒ぎになっていることは皆様ご存じの通り。
本年度補正予算に、なんと117億円もの建設費が盛り込まれている、ということなので、「新たなハコモノ建設はなんという無駄遣い」ということで、野党が盛んに噛みついております。
「アニメの殿堂」とか「国営マンガ喫茶」とか、例によっての勝手なネーミング、レッテル貼りをして攻撃するのは野党の常套手段(もしも自民党が野党になれば必ず同じ手を使います)ですね。
政府が「アニメの殿堂を造ります」と言っているわけではないのに、自分たちで勝手に付けた別名で攻撃するのは卑怯だと思います。正々堂々「国立メディア芸術総合センターは必要ない」という論陣を張っていただきたいと思います。

あ、誤解なさらないで下さい。
これは"手段"を責めているのであり、内容云々を申し上げているのではありません。
私は「卑怯」が嫌いなだけです。

さて、どうなんでしょう。
私個人としましては、新たにハコモノを造ることは確かに今のご時世に合わないとは思います。けれども、そういう施設が何らかの形で有っても良いのではないかと考えています。
それほどに、日本の漫画・アニメ・ゲーム文化はレベルが高く、世界一と断言し得るグレードを持つ文化の一つである、と思います。アニメーションの元祖とも言える「絵巻物」という表現方法を、なんと1000年前に生み育んだ日本は、ちっとやそっとで他国の追随を許さない、大きなアドバンテージがあると思いますよ。これを大切にし、全面に押し出さない手はないと考えますが、いかがでしょう。
いまだに「マンガなんぞ」という考え方が強いんでしょうかね〜。

ところで、京都にはすでに、「京都国際マンガミュージアム」があります。これは京都市と、マンガ学部を持つ京都精華大学との共同運営によるもので、マンガの収集・保管・展示およびマンガ文化に関する調査研究行うことを目的としたもの。市内中心地、烏丸御池(龍池小学校跡地)に、2006年11月に開館しました。
このあいだ京都に帰ったついでに、偶然見かけて「へぇ〜」という気持ちで覗いてみますと・・・。
案外と派手さはないにせよ、なかなか楽しめる雰囲気に出来上がっておりました。元々が小学校の跡地利用。校舎もそのまま使っている部分がありますので、建設費もそれほど掛かっていないと思います。こういう利用法は大切なんじゃないかと思いますね。

中央線沿線は、実はマンガ・アニメの集積地なんです。秋葉原じゃないんです。
マンガ・アニメ関連のオフィス・会社がたくさんあり、また漫画家さんも多く在住しているのが中央線沿線。一番有名なのは阿佐ヶ谷でしょう。
古くは『若者たち』(永島慎二)、『独身アパートどくだみ荘』(福谷たかし)、『美代子阿佐ヶ谷気分』(安部愼一・なんと映画化され今年7月公開!)などなど。これらの、なんともまぁ中央線中央線したコアな作品の多くで中央線・阿佐ヶ谷における青春群像が描かれ、最近では『阿佐ヶ谷Zippy』(内容はあんまり阿佐ヶ谷とは関係ないようですが)など、阿佐ヶ谷を冠した作品は枚挙のいとまがありません。
高円寺や荻窪だって負けてはいませんし、吉祥寺では赤白しましまのトレーナーを着た「まことちゃん」楳図かずお先生をよく見かけます。先生は街に溶け込んだ、非常に気さくな方で、手を振るとニッコリ笑って「ぐわし」ポーズをしてくださいます(笑)。
ちょっと遠出した国分寺にはタツノコプロが。

そんなこともあり、荻窪に「杉並アニメーションミュージアム」が出来ています。
荻窪と言っても、駅からはバス便になってしまいますが、青梅街道、この間お話しした「四面道」を越えてもう少し西に行ったところにあります。荻窪警察署の斜め前です。もともとあった「杉並会館」に間借りしているので、新たな建設費はかかっていないんじゃないでしょうかね。2005年の開館です。
アニメの歴史やアニメの出来るまで、これからのアニメ、など、いくつかの展示と、色塗りや編集などアニメ制作が体験できるワークショップやシアター上映があり、入場は何と無料。お好きな方には一度は伺うべき施設かもしれません(ごくマニアの方には歯ごたえが弱いかも)。
企画展もありますよ。8月25日からは「スタジオぴえろ〜魔法少女の華麗なる世界」展開催!!
(私にはどんな作品かわかりません(笑)が、きっと楽しいはず!)

日本には約600のアニメスタジオがあるそうですが、そのうち70以上が杉並区にあるとのこと。中には『機動戦士ガンダム』で有名なサンライズという会社のスタジオも杉並区上井草にあるなど、杉並区は「アニメの街」とも言え、区もそういった面での町おこしを図って、さまざまな取り組みをしているようです。
「アニメーションフェスティバルin杉並」(2005年以降3月開催)や、人材育成のための「杉並アニメ匠塾」などを開き、商店街も協力したイベントも開催。その取り組みは、時代に合致したものと私は思いますね。

ただし。
杉並区の取り組みは「アニメーション」であって、マンガやゲーム関連はちょっと弱いようです。
そうしたものも含まないと、メディアコンテンツを総合的に捉えることが出来ないんじゃないかと思います。その意味で、私は大規模な「国立メディア芸術総合センター」が、やはりあってしかるべしと思うのですよ。でも新たなハコモノを造るのは、現今の情勢からして、いささか好ましからざる状況にある、と。

で、ですね。
良い候補地があるんです。

中央線の上りで中野に到着するちょっと前、車窓右に見える建物が、今年2008年3月に統合され、閉校となった旧桃丘小学校です。駅から歩いてすぐ。しかも中央線沿線で看板効果も期待できる絶好の立地。
ここ、どうでしょうか。
中野区の方針としては、跡地について、とりあえず保育園・学童クラブなどに整備して活用するとのことですが、2011年度以降に「文化芸術活動や都市型産業の育成を支援するための施設として整備する」としています。
区から「中野駅周辺まちづくり計画」策定を依頼された 三菱総研のグランドデザインでは、桃丘小学校跡地は、「インキュベーションオフィス、コンベンション施設によるITコンテンツなど都市型産業や芸術活動の支援」と位置づけています。しかも目の前に新しい改札口が出来る計画があります。

どうです。
「国立メディア芸術総合センター」にピッタリじゃないですか。小学校跡地利用は京都と同じ。それほど費用もかかりません。これなら鳩山さんもOK?
中野は「オタクの殿堂」とレッテルを貼られる中野ブロードウエイを北口に持っています。それだけでもかなり吸引力があるところに、南口にこれができたら、ものすごいインパクトがあるように思うのですけれどもね。サブカルチャーを大切にしてきた中央線沿線各駅それぞれが、こうした新しい時代の文化拠点になることは、とても重要なことだと、私は思うのですが……。
ちょっと過激な意見でしょうか。





 セレブ中のセレブ(1)
     <2009/8/12(水)>
 中央線のイメージとして「貧乏くさい」なんていうことをおっしゃる向きもあります。
たしかに、東急東横線とか田園都市線のほうが、より高級感があるのは事実ですね。実際、代官山や田園調布をはじめ、自由が丘、たまプラーザ、あざみの……雰囲気の良い高級住宅地がたくさんあります。行ってみますと道幅も広く整然としていて、中央線沿線のゴチャゴチャ・ごみごみした雰囲気とは明らかに違います。
でも、朝のラッシュがひどいのは中央線も田園都市線も同じなんですよ。

首都圏混雑率ランキング(2007年度調査)

第1位…… 京浜東北・根岸線:上野→御徒町     混雑率209%
第2位…… 中央総武線(各駅停車):錦糸町→両国  混雑率206%
第3位…… 山手線:上野→御徒町(外回り)     混雑率205%
第4位…… 埼京線:板橋→池袋           混雑率200%
第5位…… 東西線:木場→門前仲町         混雑率199%
第6位…… 京葉線:葛西臨海公園→新木場、
      中央線快速:中野→新宿、
      田園都市線:池尻大橋→渋谷       ともに混雑率198%
第9位…… 京浜東北・根岸線:大井町→品川     混雑率197%
第10位…… 南武線:武蔵中原→武蔵小杉、
      横浜線:小机→新横浜          ともに混雑率193%

混雑率の指標としては

100%…… 乗客全員が座席に座るか、つり革につかまっている状況。
150%…… 肩が触れ合う程度で、新聞が楽に読める。
180%…… 体が触れ合うが、新聞は読める。
200%…… 体が触れ合い、相当圧迫感があるが、週刊誌程度なら何とか読める。

だそうです。一番酷くても週刊誌が読める程度なんですから、20年くらい前のラッシュと比べれば、まぁ可愛いものだと思いますよ。中央線は年々混雑が緩和されているようで、2006年度は208%(第3位)でしたから、10ポイント改善されたことになります。2003年度は218%(第2位)だったのですから、それと比較すると20ポイントと、大幅な改善を見ています。

これ、JRの改善努力もさることながら、中央線沿線住民の平均年齢が上がって、リタイア組が増え、通勤客が減少していることも関係しているように思えるのですが、さて、いかがなものでしょうか?

ともあれ。
中野〜高円寺〜阿佐ヶ谷と、貧乏くさくてゴチャゴチャした中央線のイメージ(私は誉め言葉と思っています)が続いたところで、一気に雰囲気を変えるのが荻窪なのです。

吉祥寺がオシャレなのは「井の頭線が渋谷の空気を運んでくるから」という説?があります。
さしずめ荻窪は「丸ノ内線が銀座の空気を運んでくる」街とも言えるでしょう。

荻窪も駅前は終戦直後の闇市マーケットの延長みたいな雰囲気を引きずっていますが、いえいえ、ちょっと歩くと、ぐっとセレブな高級住宅街に突入するのです。

荻窪に、ゴチャゴチャ&セレブの両面あるのは、歴史的な事実によります。
荻窪駅は、旧「井荻村」と「杉並村」の村境にあると言って良い駅です。
ちょっと乱暴に言うと、駅の南と西が井荻村、北と東が杉並村、と言えるでしょう。
セレブな町並みは旧井荻村地域に多く見られますが、道も整然として、いかにも「お屋敷町」の風情を感じさせてくれます。同じ荻窪、同じ杉並区なのに、ゴチャゴチャした旧杉並村地区(天沼など)とは全然違う印象を受けます。

これは、井荻村村長であった内田秀五郎という人の功績なのです。
非常に立派な村長で、西荻窪駅誘致を達成した内田さんについては、また日を改めて語りたいと思います。ともかく彼は近代的な志向を持って土地区画整理事業に取り組みました。1992(大正11)年から実に10年間にも及ぶ大事業。複雑に入り組んだ武蔵野台地を削り、あるいは埋め立て、その結果、井荻村は今に見られるような平坦な土地になりました。そこに計画的な広い道路を開き、周辺他村地域に見られないような美観を築き上げたのです。
そう、セレブな街は、その旧井荻村地域にあります。

ところで、「セレブ」(セレブリティ Celebrity)という単語は、いまでは「=お金持ち」みたいな使い方をされていますが、本来は「著名人・名士」を表す言葉です。つまり、特別な権力や財力をもつ人、あるいはそうしたグループのリーダーを指す言葉でした。
その本来の意味でのセレブ、セレブ中のセレブが、かつて荻窪に住んでいました。

一人目は旧久留米藩主の家柄、有馬頼寧伯爵。
競馬の「有馬記念」は、競馬の発展に寄与した彼を記念するためのものです。
有馬頼寧は1914(大正3)年、荻窪八幡神社ちかく(上荻4丁目)の土地1,500坪を購入して別荘地としました。関東大震災前に、このあたりに目を付けたのは、彼が農政に携わっていたため、武蔵野台地の素晴らしさを熟知していたからでしょう。中央線が便利になった昭和に入ると、彼はここに常住するようになりました。

彼は実に融通無碍。
まず福祉事業に熱心に取り組みました。夜間中学や貧困層向け無料診療所の創設、同和問題解決への取り組み、関東大震災被災乳幼児の保護等、あまりに熱を上げすぎて資産が傾き、相続税の支払いにも困ったとか。するとあっさり福祉事業から手を引き、政治の道に邁進。衆議院議員として盛んに貴族院の批判をしましたが、父の死後は襲爵して自分が貴族院議員になってしまいます。また近衛文麿と革新的華族の中核メンバーとして政治的な行動をし、農林大臣をつとめたり大政翼賛会に関与するなどしていましたが、戦後は転身してうまく体制に順応し、日本中央競馬会理事長など各種の名誉職を歴任。ここまでくると、なんとも「スマート」とさえ表現できるような生き方をしました。1957(昭和32)年没。

融通無碍さが「頼りなさ」にも見えたようで、戦中戦後の右翼?の巨頭「笹川良一」さんは、
「有馬頼寧の『頼寧』は『よりやす』と読むらしいが、実際は『たよりねぇ』」
と言ったとか。

ちなみに、国民新党の亀井久興代議士は、有馬頼寧の孫にあたります。

<つづく>





 セレブ中のセレブ(2)
     <2009/8/12(水)>

 荻窪が中央線の他の駅と違うところが「高架駅ではない」こと。
「そういえばそうだな」と思いませんか?
両隣の阿佐ヶ谷と西荻窪は高架駅です。なのに荻窪は非高架駅。

荻窪駅の東に「天沼陸橋」がありますが、これは中央線高架化の2年前、1955(昭和30)年に完成していました。この天沼陸橋が高架化工事の邪魔をする形となり、荻窪駅は高架ではない駅のままになったのです。その後、国鉄が民営化でJRになった後、高架化が再検討されたのですが、費用面・技術上の問題、さらに北口商店街の反対などもあったようで、結果として断念したということです。もしかすると「高架は不便」というセレブの意見もあったのかもしれませんね。

ちなみに、天沼陸橋は戦時中に「中島飛行機荻窪工場(戦闘機のエンジンを製造)」(現在の荻窪警察署北側・はらっぱ広場周辺)に軍需物資を送るために建設されていましたが、完成目前の昭和19年12月、アメリカ軍の空襲で破壊されてしまいました。中央線沿線にちらばる中島飛行機の工場は、ともかく目の敵に空襲されています(ま、当然ですが)。天沼陸橋の工事が再開されたのは戦後の昭和23年で、完成したのが昭和30年なのです。

さて荻窪の本命のセレブは、公家のトップ、五摂家筆頭近衛文麿公爵。
第34、38、39代の内閣総理大臣です。
貴族のトップである彼は、天皇と対面するときもイスに座って足を組んで接したという、エリート中のエリート。そんな態度がとれるのは彼一人であり、皇族であってもそんなことは決して許されなかったのです。

近衛文麿の業績は、なんと語って良いのやら。
貴族でありながら、西園寺公望仕込みのリベラルな思想の持ち主で開明的。社会主義的ですらあります。
西園寺に目を掛けられ、若いときから重要なポストに就きました。長身で貴族的な風貌(細川元首相に似ています。だって細川さんは近衛文麿の孫なんですから)、政党政治の腐敗ぶりに飽き飽きした国民の「プリンス」に寄せる期待は日増しに高まり、ついに総理大臣に。けれども優柔不断で流されやすく、熱しやすく冷めやすい性格から軍部の独走を抑えることが出来ませんでした。支那事変(日中戦争)の拡大、日独伊三国同盟締結などの流れを作り、最終的には政権を投げ出し(まさに細川元首相のパターン)、結果として日本を破局に導くことになってしまいます。
 終戦後、彼は新体制での活躍を考えていたらしいのですが、GHQは彼にA級戦犯容疑の出頭命令を出します。「戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない」として彼は、1945(昭和20)年12月16日、青酸カリにより服毒自殺しました。享年54。

彼は生前、新聞記者に
「戦争前に軟弱だと侮られ、戦争中は和平運動家とののしられ、戦争が終われば戦争犯罪人だと指弾される。僕は運命の子だ。」
と語ったと言われていますが、やはり、どっちつかずの性格が招いた結果と言えるのではないでしょうか。いかにも「お公家さん」らしいと言えば言えますね。

その近衛文麿の屋敷が、荻窪二丁目の「荻外荘(てきがいそう)」。彼、終焉の地でもあります。
これは現存してます。長い石垣の上に白い築地塀。覗くことの出来ない邸内には、数々の樹木が鬱蒼としていて、いかにも歴史の重みを感じさせてくれます。
現在は、文麿の次男である近衛通隆さんご夫妻がお住まい。このあたりの雰囲気・たたずまい、まさに「お屋敷町」ですよ。

『杉並風土記』(杉並郷土史会・森泰樹著)によりますと、

「昭和十二年に、公爵近衛文麿氏が、現在の荻窪二丁目四十三番にある入沢達吉博士邸を買い求められ、元老西園寺公望より荻外荘と名付けていただきました。荻外荘は南斜面の高台にあって、善福寺川河谷を一望に収め、はるかに富士の霊峰を眺める景勝地にあり、大正天皇の侍医であった入沢博士が、大正初年に地主中田村右衛門氏より、松林一町歩を反あたり七00円で買い求めて建てた別荘でした。同年六月に、近衛公が第一次近衛内閣を組織して総理大臣になられてから、荻窪の荻外荘の名が、毎日のように新聞紙上に現れ、荻窪の地名が一躍世に知られました。それとともに荻窪が高級住宅地であるというイメージが拡がりました。」

だそうです。
なお、建物の半分(応接間など)は天理教に譲られ、1960(昭和35)年、豊島区巣鴨に移築されて宿舎として利用されています。

西園寺公望による「荻外荘」という名前は、単に「荻窪の外」ということのようです。建物は1938(昭和13)年に完成し、文麿が住み始めました。
近衛家の本邸は、目白(新宿区下落合)にあるのですが、文麿は荻外荘が気に入り、荻外荘に入った後は一度も本邸には帰らなかったと言われています。
対米戦争の是非について協議した昭和16年の「荻外荘会談」など、戦前の多くの重要会談が、この荻外荘で行われ、この時期の我が国の方針は、この荻窪の地で定まったと言っても過言ではないでしょう。

ところで、(1)でお話しした有馬頼寧は第一次近衛内閣の農林大臣をつとめ、近衛が大政翼賛会を発足(昭和15年)させた時には事務総長に就任しました。ご近所同士で、さぞ話しやすかったことでしょうね。

三人目もご紹介したいと思います。
これは、家柄ではなく実力でセレブ(重要人物)になった人、渡辺錠太郎。
ご存じない方もおいででしょうが、彼は陸軍大将・教育総監であり、二・二六事件(1936年)のときに反乱軍により自宅で射殺されました。

貧しいタバコ屋のせがれ(小学校中退)が陸軍に志願し、看護卒(二等兵)からスタート。苦学・精進して軍の最高位、大将にまで登り詰めました。彼はドイツ・オランダ駐在経験もあり、ヨーロッパ流の自由・開明的な教養人で読書家。給料の大半は書店の支払いに充てたとされています。

昭和初年の陸軍は(それはまた社会的背景があったのですが)「皇道派」と呼ばれる、極端な国家主義的思想を持つ勢力が力を持っていました。しかし、皇道派の中心人物であった荒木貞夫陸軍大臣は、権力を笠に着た横暴な人事で評判を下げ、1934年に辞任。翌年、荒木の腹心である真崎甚三郎が教育総監(陸軍大臣・参謀総長とならぶ陸軍三長官のひとつ)を辞任し、その後任として選ばれたのが、皇道派と違うスタンスのリベラル派、渡辺錠太郎だったのです。彼は「天皇機関説」を擁護したとも言われ、信念に基づく、リベラルな発言や発想を隠しませんでした。

二・二六事件の首謀者たちは皇道派であり、当然ながら渡辺のリベラルな思想は嫌悪の的。また、真崎甚三郎を教育総監から追い出したのが渡辺錠太郎だと思いこんでいた節もあります。そういうことで、志半ばで渡辺は凶弾に倒れました。軍人らしく果敢にピストルで応戦しましたが、機関銃を乱射されて蜂の巣状態、さらに何度も銃剣で刺突されるという、凄惨な最期であったそうです。

渡辺邸は上荻二丁目、八重桜が美しい光明院の裏手にあり、昨年、2008年の2月まで当時の建物が残っていました。歴史的な意義もあり、また非常に風情のある戦前の名建築でしたから、ぜひ保存しておいて欲しかったと思います。

ちなみに(私の文章は「ちなみに」ばかりですね)。
ノートルダム清心学園の理事長であられる渡辺和子さんは、渡辺錠太郎の娘さんで、まさに目の前で射殺される父君を目撃された方。その衝撃からシスターの道を選ばれたそうです。二度ほどお目に掛かったことがありますが、本当に飾らない、優しいお人柄に感銘を受けた思い出があります。

荻窪のお屋敷街。涼しくなったら散策してみてはいかがでしょう





 陸軍大将御用達?
     <2009/8/13(木)>

 世の中には、食べ物屋さんを紹介するブログが本当にたくさんあるなぁと思います。
写真も美しくてプロが撮ったようなレベルですし、当意即妙なコメントの数々。グルメ番組のレポーターか美食評論家が書いたのではないかと思えるような素晴らしさ。読んでいて、思わずよだれが垂れそうになりますし、食べたつもりになって何故か満腹感を覚えたり、勉強になることも多々あります。

けれどもたまに、単なるクレームや、個人の嗜好の違いを普遍化して語ったり、営業妨害じゃないの?と思えるような記事を見ることも…。
小商いをしている飲食店を、頼まれもしない素人が、したり顔でマイナス評価する気持ち、いささか理解に苦しみます。気に入らないお店には、二度と行かなければいいだけのことじゃないのかな、と思いますよ。蔭であれこれ悪口を触れ回るようなのは、如何なものかと…。

あと、男性の食べ物屋さん紹介ブログ全般に言えることですが、「脂ぎっとり・味濃厚・量大盛り」が人気のようで、私のような年齢になりますと、ちょっと…無理があるような料理が多くありますね。ラーメンやカレーのお店紹介ブログが多いからでしょうか。
ヘビーなメタボリック、通称「ヘビメタ」には、くれぐれもご用心あれ。

さて。
食べ物屋さんをご紹介するのは、本ブログの主旨ではないのですが、昨日の荻窪セレブ話のついでに、ぜひご紹介したいお店があります。
お蕎麦の「本むら庵」です。正式な屋号は「御免蕎麦司 本むら庵」。
サイトがありますのでご覧下さい。
 http://www.honmura-an.co.jp/

「本むら」は「ほんむら」です。「もとむら」ではありません。
これは地名でして、このあたり(杉並区上荻2-7-11)の字(あざ)が「本村(ほんむら)」だったことに由来しています。場所は荻窪駅の西、光明院のさらに西で、駅から徒歩8〜9分くらいでしょうか。閑静な住宅街を歩いていく先に、「突如」という感じで出現する、重みと風格を感じさせる、どっしりとした佇まいのお店です。
中央線の高架車窓から、北側に看板が見えますよ。

創業は1924(大正13)年。
高円寺・阿佐ヶ谷・西荻窪駅が開業した2年後、ということになります。ちょうど井荻村の内田秀五郎村長が、このあたりの区画整理・道路整備に取り組んでいた時期ですね。
時期的に言って、昨日お話しした、二・二六事件で殺害された渡辺錠太郎陸軍大将も、利用していたのではないでしょうか。なぜかって、本むら庵は、まさに渡辺邸のすぐソバにあるのですから(←掛詞)。
事件当日、本むら庵はどのような状況になっていたのでしょうね。非常に興味があります。

この本むら庵は、非常に良いお店だと私は思います。
ありがちな、変に気取ったところもなく、しかし明らかに「大人相手の店」です。
お庭も非常に美しくしっとりとした和風庭園で、有名な盆栽作家の方が精魂込めて作られた作品とか。季節の移ろいと共に風情を変える趣は、まさに大人の鑑賞に堪えるもの。それを見ながら戴くお蕎麦の美味しいこと。

もちろん。
お蕎麦も最高です。
良質な国産玄蕎麦を低温保存し、その日打つ分だけを石臼挽き。
そんな繊細なお蕎麦が、なんと735円ですよ(せいろ)。しかも、735円なのにちゃんと本ワサビが1本付いてきて、自分でゴリゴリおろして食べることが出来るんですから、そんじょそこらのお店には、ちょっとマネできないレベルであると思います。

でも、こういうお店は、満腹になるために行くお店じゃないように思います。
やっぱりお酒(しかも昼酒)をちょっと嗜んで、ラストを蕎麦で締める、そういう流れが最も似合うお店だと思います。

お店にはいると「花番」のお姉さん達が元気良く迎えてくれます。てきぱきと席に案内してくれますし、いつも気持ちの良い対応。

剣菱の樽酒(升)が630円(突き出しはワサビの漬け物)。
まずおつまみ物を頼むとして、
つぶ貝しぐれ煮が577円、板わさ・玉子厚焼・そば豆腐などの「蕎麦屋酒定番物」が703円。ちょっとぜいたくに鴨ロースが945円。このロース、からし醤油でいただきますが燻製ハムみたいで8枚、案外ボリューム有ります。そうそう、「磯揚げ」というのもあります。海老と大葉を中にした蕎麦を海苔で巻き、素揚げにしたもの。これは肴として実におつなもので、840円。

味はもちろん確かなものですが、ふだん、チープな飲み屋ばかりで飲んでいる私にとっては、ちょっと高めの設定かな。いえいえ、このお店では「空気」を楽しむことが出来るのです。安心してゆったりと包み込まれるような「雰囲気にお金を払っている」とでも申しましょうか。大酒飲んで騒ぐような人も居ません。庭の緑を楽しみ、ガラス越しに蕎麦打ちの職人技を鑑賞し、料理をひと箸、お酒をちびり。大人の時間の楽しみ方としては、大いにアリだと思います。

それに、蕎麦屋での昼酒というものは、べろべろになるまで飲むものではありませんよね。そういうのは野暮の骨頂ですし、お店の雰囲気を壊してしまう迷惑者です。大人のすべき行為じゃないと思います。
ですから、お酒は2合くらい、つまみは2品くらいを頼みます。

そして2合目が終盤にさしかかる頃に、「せいろ」を頼みます。明るく、きびきびと応対してくれる花番さんたちが好ましい。
まず、蕎麦猪口と薬味、それに1本の本ワサビ(と下ろし金)が届きますので、残りのお酒を楽しみながら、ワサビのすり下ろしにかかりましょう。ワサビは一口残しておくのがコツ。これで升酒を締めるのです。というより、ギリギリまですり下ろすと指まで擂りそうで(笑)。

お蕎麦はするするっと。
私は関西人ですから能書きはありません。ワサビをちょっと乗せて、しっかり麺汁を漬けていただきます。荻窪的に?まったりとした甘めの汁。あ〜美味しい。量はあんまりありませんが、それは「上品」と解釈すべきでしょう。お酒の締めに腹一杯食べるなんて、粋でもなければ品もない、しかも健康にも良くないじゃないですか。社員食堂で昼飯食べてるわけじゃないんですから、本むら庵の盛りで丁度いいあんばいだと思います。

食べ盛りのお子さまは……正直言って、場違いなんじゃないでしょうかね。
ここは、いかにも中央線・荻窪の、お屋敷町にあるべきお蕎麦屋さん。カツ丼もあるような町のお蕎麦屋さんとも、江戸下町風の老舗蕎麦屋さんとも違う、別種のカテゴリーに属しているお店だと思います。
オーラスはもちろん蕎麦湯。濃厚です。以上で3275円。1時間半くらいの大人の楽しみ。けっして高くはありません。

実は私も、そう何度も行ったわけではありませんが、行くたびに、大人の時間を楽しめたことに満足しながら帰ることが出来ます。なかなか貴重な存在でしょう。

以前は六本木にも同じコンセプトの支店があって、そこは時々利用していました。どんな人を案内しても(蕎麦アレルギーでない限り)満足してくれましたっけ。
いまはそこはニューヨークスタイルの「HONMURA AN」になっています。
コンクリート打ちっ放しのお洒落な店内。御座敷がなくなって、年輩者にはちょっと落ち着かない雰囲気になりましたが、六本木という立地ゆえの選択だと思います。お若い方が積極的に利用してくださると良いですね。

本むら庵荻窪本店。
気分だけでも荻窪セレブに…というときに、ちょっと利用してみるのはいかがでしょう。





 愛のスカイライン
     <2009/8/15(土)>

 今日明日はお盆の帰省、Uターンで高速道路が混むでしょう。ひところよりガソリン価格も下がり、何より高速道路1000円ですものね。ですが最近は、若者の自動車離れが進んでいる、という話を聞きました。むかしはマイカーがあることが「モテる」秘訣、なんていう時代もありましたが、価値観の多様化が進んだ今、そう簡単な話でもないようです。むかしの若者にはあこがれの的、いえ、今なお人気の高い日産の自動車は「スカイライン」。流線型でいかにもスピードが出そうなこの車は、なんともカッコイイ、「モテそうな車」です。そうそう、「ケンとメリーのスカイライン」なんていうCMもありましたっけね。

このスカイライン、「荻窪で生まれた」なんて言われることがあります。
そしてそれは事実です。そのことをお話しするには、中央線沿線を語る上で何度も登場する「中島飛行機」に、また触れなくてはなりません。

そもそも「中島飛行機」とは何ぞや。
Wikipediaによれば
「中島飛行機(なかじまひこうき)は、1917年から1950年まで存在した日本の航空機・エンジンのメーカー。創業者は元海軍機関将校であった中島知久平。エンジンや機体の開発を独自に行う能力を持ち、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、太平洋戦争終戦までは三菱航空機を凌ぐ東洋最大、世界有数の航空機メーカーであった。」
とのこと。陸軍の名戦闘機「隼(はやぶさ)」で有名です。

ちなみに、「隼」まで日本の戦闘機には愛称はなく、「九七式」とかの無粋な年次名称でした。「隼」も正式には「一式戦闘機」です。けれども新聞で「隼」の活躍が有名になると、愛称のほうが国民受けするということになり、二式戦闘機は「鍾馗(しょうき)」、三式「飛燕(ひえん)」、四式「疾風(はやて)」と続きます。海軍でも「ゼロ戦」でおなじみ零式艦上戦闘機のように年次名称でしたが、陸軍機名称の人気にあやかり、のちには「紫電」「雷電」といった愛称を正式名称に採用するようになりました。

さて、その中島飛行機が1924(大正14)年11月、荻窪に「東京製作所」をつくりました。ここは発動機(エンジン)の製造開発を主眼とした工場で、まずフランス製エンジンのライセンス生産から始まり、自主開発の能力を身に付けていきました。まず九七式戦闘機の「寿」エンジン、やがて1000馬力「栄」エンジンを開発。これは高性能エンジンで大量生産され、「零戦」や「隼」に搭載されました。中島飛行機の設計陣はさらに研究を重ね、「疾風」の2000馬力「誉」エンジンへとつながります。

工場は約3万坪と広大で、現在の杉並区桃井三丁目のほとんどを占めていました。この東京製作所、大きな空襲被害を被ることなく終戦を迎えます。三鷹の武蔵製作所は徹底的に空襲を受け、壊滅させられていますが、荻窪の東京製作所は、結局、本格的・集中的な空襲を受けずに終わりました(天沼陸橋はじめ多少の被弾はあり)。いかにも謎めいた話しではあります。一体なぜなのでしょうか。

それは荻窪駅の北、天沼に「東京衛生病院」があったため、と言われます。ここは、キリスト教アドベンチスト教団が開いた病院で、同教団はプロテスタントに属する宗教団体。19世紀、米国人ウィリアム・ミラーの宗教運動に端を発した教団ですので、アメリカでも一定の勢力を持った教団でした。その教団の病院を誤爆でもしたら大変です。
…ということで、荻窪駅の北部一帯は大規模な空襲を受けずに済んだ、というのようです。

いまも東京衛生病院と同教団の天沼教会は健在です。駅からそこに至る道は、その名も「教会通り」。空襲の被害がなかったことから、ゴチャゴチャした戦前の佇まいを残しています。病院つながりで言えば、桃井の「荻窪病院」は、1936年に設立された、中島飛行機東京製作所の付属病院だったのです。

さて終戦。
GHQは当然のように巨大軍需企業・中島飛行機の解体を命じます。会社は12に分割されました。主力工場(群馬県太田製作所など)はやがて「富士重工業」に集結。いまも「スバル」でお馴染みですね。
東京製作所は独立して「富士精密工業」となりましたが、もはや飛行機を生産することも出来ず、農業機械のディーゼルエンジン、ミシンや映写機などを製造。「鳴かず飛ばず」が続いたようですが、朝鮮戦争の特需景気により、活況を呈するようになります。

やがて中島と同じような軍需会社「立川飛行機」の後身「たま自動車」と協同で、自動車「プリンスセダン」を開発・製造したのが1952(昭和27)年3月。なぜ「プリンス」かというと、開発とほぼ同時期に明仁親王(現在の天皇陛下)が皇太子になる儀式(立太子の礼)があったからです。その2年後に、富士精密工業は「プリンス自動車工業」(「たま自動車」が改名)と合併し、ここに戦時中の高度なエンジン製造技術を持った自動車メーカー「富士精密工業」が誕生しました。

旧中島飛行機のエンジニアは、培った航空機技術を惜しみなく新車開発に注ぎ込みます。彼ら目指したのは「地上を翔る翼」。執念は実り、ついに1957(昭和32)年、高級自動車である、初代「スカイライン」ALSI型1500ccが発表されました。60psの高出力、最高速度125km/h、飛ぶように疾走するスカイラインは、まさに「地上の戦闘機」。その後モデルチェンジを繰り返して今日に至るのは、皆様もよくご存じでしょう。

1961(昭和36)年に「プリンス自動車工業」と再び社名を変更。そして1966(昭和41)年、(当時の政府の方針により)日産自動車に吸収合併されました。販売会社として「日産プリンス」というのがありますが、それはプリンス自動車の名残です。
日産との合併時、すでに日産には「ブルーバード」や「セドリック」など同クラスの名車がありました。そのため「スカイライン」開発陣は一抹の不安もあったようですが、荻窪技術陣は一層奮起し、フルモデルチェンジしたのが不朽の名車、3代目「スカイラインC10型」、通称「箱スカ」(愛のスカイライン)です。

その後、同地は日産自動車の荻窪工場として操業していましたが、1998(平成10)年、カルロス・ゴーン氏の日産経営改革「リバイバルプラン」により、都市基盤整備公団に242億円で売却されました。
跡地は、日産プリンス東京販売の営業所のほか、マンションや高齢者施設、高級スーパー「クイーンズ伊勢丹」、そして広大な「桃井はらっぱ公園(仮称)」(防災公園になる予定)になっています。
はらっぱ公園では、日曜日のたびに紙飛行機を飛ばす親子連れの姿が見られます。はるか昔、ここでホンモノの飛行機を作っていた人と同じように、その瞳には、青空を飛ぶ白い雲が映っていることでしょう。

実は、荻窪の富士精密工業は、「日本のロケット開発発祥の地」でもあります。
その続きはまた次回。





 日本の宇宙基地?!
     <2009/8/17(月) >

 私が中学1年のときだったと記憶していますが、アポロ11号が月に着陸しました。世界中が興奮しましたね。
で、翌年の大阪万国博覧会の「アメリカ館」は、アポロが持ち帰った「月の石」を見るために大行列が出来ました。見たって単なるそこらの何の変哲もない石コロで、「ふ〜ん」で終わってしまうようなものなのですが、そこは好奇心旺盛な日本人。2〜3時間並んで熱心に見たものです。

月の石って見た目は石ころですが、ミネラル含有量は地球上の石とは大違いで、トマトの鉢植えにほんの一かけの月の石を入れたら、トマトがもりもり繁殖したとか。地球表面の石は雨に曝されるので、ミネラルが溶けだして「出し殻」になってしまっているとか。月には水がないので、形成当初のミネラルが保持されているとかなんとか、本で読んだ記憶があります。ホントかな??

アポロ計画はおおむね順調でしたが、13号のときに大きなアクシデントが起きてしまいます。13なんて、あっちの人にとってはいかにも縁起が悪い数字ですよね。そういうときに実際、アクシデントが起きるんです。スタッフが「縁起が悪い」と思うとメンタル面の「ぶれ」が生じ、結果として様々なミスが生まれてしまうんですよ。ですから、行事の前の「御祓い」とかは、スタッフのメンタル面でのケアとして、プロジェクト推進に欠かせないのです。

「アポロ13」は映画にもなりました。
機械船の酸素タンクが爆発し、月面着陸どころか乗組員の帰還すら危ぶまれる状態。けれどもスタッフ一同の冷静な対応によって、乗組員は着陸船に避難して月を周回した後、無事に地球に帰還しました。
映画の中で、トラブルが起きたとき、「計算尺」を取り出して軌道計算するシーンが印象に残りました。あのときまだ「答一発カシオミニ」は無かったんですよ。「計算尺」の他、「タイガー計算機」はありましたが。

「計算尺」。お若い方はご存じないでしょう。いつも立ち飲み屋さんで、アダルトかヤングかの線引きをするときに
「計算尺って知っていますか?」
と聞いています。今も現役の「算盤」と違って、「計算尺」はかなり正確に年代線引きをしてくれます。
おかげで中野の立ち飲み屋さんでは、私は「計算尺の先生」と呼ばれています(笑)。

さて。
前回に「スカイラインは荻窪生まれ」というお話しをしました。
そう、中島飛行機〜富士精密工業〜プリンス自動車〜日産自動車と変遷した荻窪工場で、名車「スカイラン」は生まれ、育ちました。
と、同時に、この工場は日本のロケット発祥の地、という面ももっています。
富士精密工業が日本初のロケットを開発、はじめて飛行に成功させたのが、ここなのです。

いま「日産プリンス東京販売・荻窪営業所」の敷地内に、日産自動車宇宙航空事業部のOB会が設置した、「ロケット発祥之地」と刻まれた記念の石碑があります。そこには、全長230mm、胴体直径18mm、オモチャのような「ペンシルロケット」の模型が埋め込まれています。

碑文には

「戦後間もない昭和28年、旧中島飛行機から社名を変えた富士精密工業は東京大学生産技術研究所(現、文部科学省宇宙科学研究所)の指導を受け、ロケットの開発に着手した。2年後の昭和30年にはペンシルロケットの初フライトに成功し、これが日本のロケット第1号となった。
 爾来、約半世紀、富士精密工業は、プリンス自動車工業、日産自動車、アイ・エイチ・アイ・エアロスペースと変遷を重ねたが、ロケット技術は脈々と後進に受け継がれ、現在の日本の主力ロケットを生み出す原動力となった。 ロケット開発の拠点たる日産自動車荻窪事業所は平成10年5月に群馬県富岡市へ移転したが、跡地は再開発されることになった。
 この地の生み出した創造的意義に鑑み、ここに記念碑を建立し、往時を偲びつつ、宇宙開発の更なる発展を祈念するものである。」

とあります。

どうして荻窪でロケット開発なのでしょうか。
それは、「日本のロケットの父」と呼ばれる「糸川英夫」博士が、もと中島飛行機の設計技師(「隼」「鍾馗」などを設計)であったことによります。
戦後、糸川博士は東京大学の教授となりましたが、もともとロケット狂と呼ばれるほど、ロケット開発に熱心であった博士。1954(昭和29)年、東京大学生産技術研究所にロケット飛行機(日米を20分で飛ぶ)研究班(AVSA)を創設します。ジェットエンジンではアメリカに敵わないので、世界的に研究が緒に付いたばかりのロケットで勝負しようと考えたのだそうです。その研究の一環を、もともとの中島飛行機の縁で、富士精密工業が担ったと言うことなのです。東大に「AVSA」が立ち上げられる一年前に、糸川博士は旧中島飛行機の仲間に相談し、富士精密工業から協力の約束を取り付けていたのです。

しかし、開発には困難が続きました。
ロケットの推進薬には、戦時中のロケット弾(噴進弾)に用いた炸薬を転用しましたが、地上実験のたびに大震動が発生し、隣の精密機械工場の旋盤が揺れてクレームが付くこともしばしば。あんな町中でロケット実験というのも、確かに無謀ですよねぇ。

たゆまぬ研究が続けられ、ついに1955(昭和30)年、ペンシルロケットは打ち上げに成功しました。ここに日本の宇宙ロケットの幕が開いたのです。

ですが……。
ドイツの弾道ミサイル「V2号」を開発したフォン・ブラウンは、エタノールと液体酸素を推進薬とする重量500kgのロケットを、1934(昭和9)年に飛ばしています。1942(昭和17)年には、宇宙空間まで飛翔させることに成功。到達距離は192kmにも達しました。
それと比べると、わずか230gの「ペンシルロケット」を打ち上げるだけで、これだけの苦労を重ねたというところに、(当時の)日本の科学技術の立ち後れを痛感させられるエピソードであると思います。糸川博士が「ジェットはダメでもロケット技術ならアメリカにおいつける」と考えていたのは、いささか的はずれであったように思えます。

もちろん、ペンシルロケットを打ち上げることは、宇宙開発の第一歩に過ぎません。その後も努力は継続されました。本格的な空襲を免れた荻窪工場には、飛行機用のジュラルミンがたくさん在庫されており、それが利用できたのは好都合であったようです。ペンシルロケットは小さいものでしたが、繰り返される様々な実験によって、大型ロケット開発に役立つ、たくさんの基礎データという、「大きな」成果を得ることが出来ました。
その後、国産のロケットはベビーロケット→カッパー→ラムダ→ミューといった大型ロケットに発展します。もちろん、現在の衛星打ち上げ「H2A」ロケットにも、その技術は継承されています。

糸川博士が旧中島飛行機の仲間を協力者に選んだのは、単に「むかしの仲間」だったから、ではないようです。中島飛行機の技術の高さ、それは研究・設計開発者たちだけでなく、旋盤技能者といった現場工員たちのレベルの高さも、国内でもトップレベル。それになにより「中島飛行機の社風」が独特でした。

社内の風通しが良く、上司を「課長」「部長」などと呼ばずに誰でも「さん」付け。技術論議となると、上司も部下もなく、まったく自由に話し合ったと言います。当時としては非常に珍しいことです。
そうした形式張らない自由さが、ロケットという新しい技術開発には欠かせないと、糸川博士は考えたように思われます。

立場にしばられず、お互いを尊重し合って自由に話し合う気風。それはまさに、中央線人の特徴とも言えましょう。中島飛行機の人たちも当然、中央線沿線に住んでいた、暮らしていた人が多かったことでしょう。ですから、そうした中島の気風が、いまも遺風として残っている、と考えても決して不思議ではないと思います。

糸川博士は「出来ない理由を考えるな」をモットーにされていたとか。いまの時代、あまりにも「言い訳上手」な人が目立つように思います。荻窪の地に、むかしの職人気質が、いまも残っていることを願います。
あんがい、駅前で焼き鳥、食ってたりして(笑)。





 おぎやはぎ?
     <2009/8/29(土)>

 「荻原」さんは、よく「萩原」さんと間違われます。
「はぎわら、じゃなくって、おぎわら、です!」
生まれてから今まで何回、訂正し抗議したことでしょう。だいいち「荻(おぎ)」という漢字を知らない人さえ、世の中には沢山います

中央線人なら「荻(おぎ)」はもちろん読めます。それは「荻窪」があるから。この荻窪という地名ですが、荻窪駅の西、環八と交差するところにある線路沿いの寺院、慈雲山萩寺光明院(真言宗豊山派)にルーツを求めることが出来ます。

奈良時代、708(和銅元)年のこと、高僧「行基」作の千手観音像を背負った修行僧が、ここまではるばるやって来ました。けれども背中の観音様の重さに負け、ついにこの地で歩くことが出来なくなってしまったのです。修行僧は、
「これはきっと、観音像がここに安置されたいからに違いない」
と(都合良く?)解釈し、付近にたくさん生えていた荻を刈り取って草堂を作り、そこに観音様を安置。この草堂を「荻堂」と名付けました。 これが光明院の縁起なのです。

「荻(おぎ)」という植物は、イネ科ススキ属の多年草で原野の水辺に群生します。学名はMiscanthus sacchariflorus。ススキの一種と考えればいいですが、ススキよりは大型で高さは2メートル前後。花穂はススキに似ていますが、大形でふっくらとし、白みが強い色をしています。茎は堅く、草庵を結ぶには十分な強度を持った植物です。オギという名前は、その風になびく姿が、まるで「招き寄せる」ように見えるため、「おぐ」(招)が「おぎ」に変化したものと言われます。そうした荻の群生する窪地であったため「荻窪」という地名が自然発生しました。

荻窪駅の4番ホーム(快速・新宿方面乗り場)の新宿寄りの線路際に、雑草が生い茂っている「荒れ地」みたいな一角がありますが、これは荻を生やしている場所なのです。「荻」は今や東京では珍しくなってしまった植物ですから、このようにして「荻窪」の地名の由来を教えてくれているのです。

ところで、荻野(おぎの)さんも萩野(はぎの)さんと間違われることもありますが、荻原さんほどの頻度ではないかも。なぜなら「荻野」には「荻野式」避妊法というのがあって、「オギノ」という単語は、わりと人口に膾炙しているからです。

「オギノ式」は、考案者の産婦人科医、荻野久作博士の名前によります。1924(大正13)年に荻野博士が提唱されたのが、「排卵は周期日数に関係するのではなく、次回生理の初日から逆算 して14日±2日にある」とした理論。よく「オギノ式避妊法」と言いますが、実際に荻野博士が研究したのは不妊対策の「懐妊法」であり、いかに妊娠の確率を「高めるか」の研究でした。それが避妊に逆利用されただけなので、「オギノ式避妊法はよくはずれる」なんていう批判は、最初から的はずれなのです。博士も自らの理論が避妊に使われることは不本意で、しかも不確実とわかっていましたから、生前さまざまな機会で抗弁していたとのことです。

荻野久作博士は愛知県豊橋の出身で旧姓中村。中学生時代に荻野忍さんの養子となって荻野姓を名乗ります。養父の忍は、愛知県にあった西尾藩の家臣で、お殿様である松平乗秩(のりつね)とともに東京に転居。乗秩の子、松平乗承(のりつぐ)が日本赤十字社の副社長となったときに、忍も日赤に入社して人事係長を務めました。が、医師ではありませんでした。

さて、無関係な話しを長々して、何が言いたいかと言いますと、この「荻野」という姓の人に、江戸時代から有名な医師が多いという不思議です。
荻野博士のほかで有名な荻野医師は、「日本の女医第1号」として知られる、荻野吟子さんです。彼女は埼玉県熊谷の名主、荻野綾三郎の娘で、久作博士や忍とはまったく無関係。
もうひとりの荻野医師は、江戸時代の医者「荻野松庵」。これを言いたいが為に、長々とオギノ式を語りました(笑)。

西荻窪の南に「松庵」という地名がありますが、これは「荻野松庵が開拓した新田」だから、その名前があると言われています。杉並区教委区委員会が、西高井戸松庵稲荷神社に建てた説明版には、

「松庵村は万治年間(1658〜1660)に松庵という医者が開いたと伝えられ、安養寺(武蔵野市)の供養塔にある荻野松庵がその人ともいわれています。境内入口には元禄3年(1690)、元禄6年(1693)銘の庚申塔があり、元禄3年のものには「武州野方領松庵新田」と刻まれています。このことから元禄3年以前にはすでに新田開発の村として開かれていたものと考えられます。」

とあります。

武蔵野台地の新田開発は、大都市江戸の食糧生産量増大という目的とともに、失業者(浪人)対策という意味もありました。また「一山当てよう」という気持ち満々の人も開発に乗り出しました。荻野松庵も、そうした中の一人なのかもしれません。新田開発には、水が不足するなど大変な苦労があったようですが、こうした先人たちの努力によって、中央線沿線は開拓されていったのです。

今回、話しの脱線が過ぎて、一時はどうなることかと思いましたが、なんとか中央線の範囲内に収まりました。ほっ。





 みだれ髪
     <2009/10/16(金)>

 ちょっと仕事がらみで、『源氏物語』のある部分を読み込む作業をしています。
それにしましても、今更ながら、『源氏物語』というのは凄く奥深い物語ですね。全54帖の中で、初めの10帖くらいは、かなりミーハーな内容で人物描写に深みがないのですが、次第次第に文もこなれ、人物や感情の描き方がハンパじゃなくなります。書き慣れていったこともあるでしょうが、宮仕え前と後とで、紫式部の経験値が劇的に変化した、ということも大きいように思います。

昨年は「源氏物語千年紀」と称して、関係者は大騒ぎしました。世間様ではまったく歯牙にも掛けられなかったような気も…(苦笑)。
「千年紀」というのは、文献(『紫式部日記』)上で、『源氏物語』に関する単語が初めて登場したのが、昨年2008年から千年前、1008(寛弘5)年の11月1日だということを根拠にしたもの。
 日記によれば、この日、紫式部が控え所?で休んでいると、藤原公任という人がやってきて
「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」
(そういえば、このあたりに「若紫」がいるらしいじゃないか?)
と語った、というのです。「若紫」というのは『源氏物語』のヒロインの名前であり、作者である紫式部を(からかって?)呼んだものです。
 関係者は11月1日を、国の制定する「古典の日」にすべく政治的に活動中。将来は祝日になるかも? そうすると11月3日が文化の日ですから、それとくっついて3連休。今度は「ブロンズウイーク」ですかね?(笑) このところの日本人、ちょっと休みすぎなのでは??

さて、そんな『源氏物語』ですが、古くから愛され続け、日本の文学、そして日本人のモノの考え方に大きく影響してきました。さまざまな解説書が鎌倉時代以降に編まれ、近代以降は多くの「現代語訳」が試みられています。

「現代語訳」として、もっともポピュラーかつ読みやすく正確なのは、与謝野晶子のものであると断言いたします。その後のものは、与謝野訳をいじくったものに過ぎないと私は思います。「有職故実」(昔の事物やしきたり)に関する詳細な知識がないと表現できない内容も、与謝野訳ではきちんとした理解を踏まえてなされています。大したものです。

与謝野晶子は幼少の頃から『源氏物語』に親しみ、いつかは自らの手で現代語訳をと考えていたようです。34歳のときにまず日本初の現代語訳である『新訳源氏物語』を出しましたが、そのとき参考にしたのが、江戸時代に最も流布した注釈書である『湖月抄』(1673・北村季吟)。これは内容的に誤りが多いのが難点で、しかも校訂をした森鴎外は『源氏物語』の知識が万全でなく、全体的に完成度に欠けるものでした。

晶子もそのことを自覚していたようで、全面的に書き直し、最後の『宇治十帖』を残すところまで完成したところで関東大震災に罹災。数千枚の原稿が灰燼に帰してしまいました。普通なら、そこでもう挫折してしまうところですが、さすがは「女性の経済的自立」を唱える、「信念の人」与謝野晶子。再度ゼロから書き上げ、17年の歳月をかけて『新新訳源氏物語』を完成させました。1938(昭和13)年に刊行しています。

晶子が『新新訳源氏物語』を書いたのが、荻窪なのです。杉並区南荻窪4-3-22が、与謝野鉄幹・晶子の旧宅跡。今は「南荻窪中央公園」となっています。
二人は千代田区富士見町に住んでいたのですが、関東大震災に罹災し、荻窪に移住しました。当時は「井荻村下荻窪」、何もない畑のど真ん中で、さびしいところだったようです。知人である英文学者で慶応大学教授の「戸川秋骨」さんが荻窪に移住するにあたり、「一緒にどう?」と誘ったとか。何しろ田舎ですから土地の賃料が安く、坪あたり3銭。都会の狭い住環境の反動なのでしょうか、なんと500坪も借りました。そこに洋館「遥青書屋(ようせいしょおく)」と、日本家屋「采花荘(さいかそう)」を建て、子ども達と生活しました。まず子ども達が住み、夫妻が移住したのは1927(昭和2)年のことです。

現在、公園に杉並区教委区委員会が建てた案内板がありますので、それをご紹介しましょう。

 「与謝野寛(号・鉄幹)晶子旧居跡」
 現在、公園となっているこの場所は明治・大正・昭和にわたり近代詩歌に輝くような功績を残した与謝野寛・晶子夫妻が永住の居として自ら設計し、その晩年を過ごした家の跡です。
 関東大震災の体験から、夫妻は郊外に移ることにし、当時、井荻といわれたここに土地を得て、昭和二年、麹町区富士見町より引越してきました。甲州や足柄連山を眺める遥青書屋と采花荘と名づけられた二棟のこの家に、夫妻は友人から贈られた庭木のほか、さまざまな花や雑木を植え、四季折々の武蔵野の風情を愛でました。当時の荻窪を夫妻は次のように描いています。

 私は独りで家から二町離れた田圃の畔路に立ちながら、木犀と稲と水との香りが交り合った空気を全身に感じて、武蔵野の風景画に無くてはならぬ黒い杉の森を後にしてゐた。私の心を銀箔の冷たさを持つ霧が通り過ぎた。                    「街頭に送る」 昭和六年 晶子
  大いなる 爐の間のごとく 武蔵野の
           冬あたたかに 暮るる一日  寛
  井荻村 一人歩みて 蓬生に
           断たるる路の 夕月夜かな  晶子

 また、この家で夫妻は歌会を催したり「日本古典全集」の編纂や歌誌「冬柏」の編集をおこない、各地へ旅行して歌を詠み講演をしました。
 昭和十年三月二十六日、旅先の風邪から肺炎をおこして入院していた寛は、晶子を始め子供達や多くの弟子達に看取られながら六十二年の生涯を閉じました。
 寛亡きあと、晶子は十一人の子供の成長を見守りながらも各地を旅し、また念願の「新々訳源氏物語」の完成(昭和十四年)に心血を注ぎました。
 昭和十七年五月二十九日、脳溢血で療養していた晶子は余病を併発して、この地に六十四年の生涯を終えました。
  平成六年三月  杉並区教育委員会

荻窪駅南口から善福寺川を越え、環八も越えたところが現地です。途中に杉並区立桃井第二小学校がありますが、その校歌は与謝野晶子が作詞したものです。なにか羨ましいですね。
 1 たかく聳びゆる富士の嶺は 桃井第二の校庭へ
   学びの心澄み入れと 朝々清き気をおくる
2 都の西の荻窪は 草木茂り鳥うたひ
   小川の流れさわやかに 自然の匂い豊かなり
3 かく誇るべき学校の 師の導きにしたがいて
   いや栄えゆく日の本の 我等は光る民たらん

 また、途中の商店街「川南共栄会」では、夫妻を描いたバナーを街路灯に掛けて、イメージを高めています。

ところで。
与謝野晶子といえば、女流歌人として知らない人は居ないでしょう。
私は中学1年の頃に、彼女の歌集『みだれ髪』を読み、多感な少年は心をときめかせたものです。
「やわ肌の あつき血汐にふれも見で さびしからずや 道を説く君」
「人の子の 恋をもとむる唇に 毒ある蜜を われぬらむ願い」
なんてね〜。ク〜〜〜〜ッ。
14歳の健康な男子には、いささか刺激が強うございました。

晶子の本名は「鳳志よう」。「鳳(ほう)」が苗字で「志よう」が名前。本名の方がよっぽどペンネームみたいですね。『みだれ髪』発表当初は「鳳晶子」の筆名でした。
 
さて与謝野晶子といえば、1904(明治37)年「あゝおとうとよ君を泣く 〜旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて」が有名ですね。「反戦」と大上段に構えるのではなく、ごくごく当たり前の人間的感情の発露で、日露戦争当時はこういう言論の自由があったのだなぁと思います。心に響く長歌です。

あゝおとうとよ君を泣く  君死にたもうことなかれ
末に生まれし君なれば  親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて  人を殺せとおしえしや
人を殺して死ねよとて  二十四までをそだてしや

堺の街のあきびとの  旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば  君死にたもうことなかれ
旅順の城はほろぶとも  ほろびずとても何事ぞ
君は知らじなあきびとの  家のおきてに無かりけり

君死にたもうことなかれ
すめらみことは戦いに  おおみずからは出でまさね
かたみに人の血を流し 
獣の道に死ねよとは  死ぬるを人のほまれとは
大みこころの深ければ  もとよりいかで思されん

あゝおとうとよ戦いに  君死にたもうことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに  おくれたまえる母ぎみは
なげきの中にいたましく  わが子を召され家を守り
安しと聞ける大御代も  母のしら髪はまさりぬる

暖簾のかげに伏して泣く  あえかにわかき新妻を
君わするるや思えるや
十月も添わでわかれたる  少女ごころを思いみよ
この世ひとりの君ならで  あゝまた誰をたのむべき
君死にたもうことなかれ

つくづく、戦争というのは悲しいものだな、と思わせてくれますね。
ちなみに、「おとうと」である鳳籌三郎(ほうちゅうざぶろう)さんは、姉の祈りが通じたのか無事生還し、晶子の没後2年経った、1944(昭和19)年に亡くなっています。