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 西荻窪


 おそれおおくも・・・
     <2009/7/16>

 ブログ開設からちょうど2週間です。
最後まで残った駅が、ここ西荻窪でした。クリックしても「投稿はありません」状態。
あ、西荻窪は中央線利用者なら100人中98人、「西荻」と略しますので、以下「西荻」で。

別に西荻がターミナル駅である荻窪(丸ノ内線始発駅)と吉祥寺(井の頭線始発駅)の間にあるエアポケットのような存在だから差別したとか、土日にオレンジ色(快速)が止まらない通称「杉並3駅」だから無視したとか、そういう意図はさらさらございません。
ただただ、「おそれ多かった」ということでございます、御代官様。

ことほど左様に、西荻は「おそれ多い」街なのです。
「おそれ」は「畏れ」であり「虞」であり「懼れ」であり、そして「恐れ」でもあります。
 ・畏=自分を遥かに越えた存在に対する畏怖・尊敬の念
 ・虞=よくないことが起きるのではないかという危惧
 ・懼=未来への不安と良くなることを願う気持ち
 ・恐=危害を招くものをこわがること
いや〜、字を並べてみると、なんとも「まがまがしい」ですね。
キーボードを打つ手がなんとなく震えてしまいます。

つまり西荻は中央線の中でも特に「精神世界」を司る立場の街と言って過言ではないでしょう。
もちろん他の駅にあるような気軽な飲み屋さんも多数ありますし、「普通の」八百屋さんとか魚屋さんもある普通の街です。都内でも有名な洋菓子店も西荻にあります。
あ、駅前の「こけし屋」ももちろん有名な洋菓子の老舗ですが、私の申し上げたのは東京女子大前の「パティスリー・アテスウェイ」さん。
駅から遠い(徒歩18分ほど)にもかかわらず、いつも満員御礼。お抱え運転手をベンツに待機させてお買い物のマダムなども、しょっちゅう見かけます。もちろんセレブ候補生たる東女(とんじょ)の女子学生の皆さんたちもご愛用♪

雑多な下町風の部分と、そんなセレブリティな部分を併せ持ちながら、やはり西荻を一言で表す言葉は「精神世界」でしょう。
日本中を震撼させた、あの「オウム真理教」が西荻を根城にしていたというだけで、その奥深さがおわかり戴けるのではないでしょうか。教祖様華やかなりし時、「真理党」を結成して1990年の衆議院議員選挙に打って出ました。東京4区(渋谷区・中野区・杉並区)から出馬した教祖様の選挙活動はまさにパフォーマンスでしたねぇ。西荻(だけでなく高円寺や中野でも見かけましたが)駅前で、教祖様のお面やゾウの帽子をかぶった多数の運動員が「尊師マーチ」を合唱しておりました。今は昔の物語。

オウム真理教は極端な例なのでおくとして、(もっと穏便かつ平和的な)新宗教の拠点が数多く西荻に存在していることは事実です。「幸福の科学」もこちらが発祥の地です(1986年)。
さらに「宗教」以前の組織化がなされていない、あるいは組織になることを拒否しているような、「個人的精神新世界愛好者」も西荻には数多く在住していて、そうした人たちが集まるのが「ほびっと村」。そうですね、オタクの皆様が中野ブロードウエイに集まるように、精神世界マニアが集まるのが「ほびっと村」、そんな感じでしょうか。規模は全然小さいですが。むしろ精神世界には小さい方が良いのかも。なにしろ「ホビット」(こびと)ですからね。
3階建ての中は、自然食レストランや、そうした方面の書店、自然工房などなど。ここは決して「まがまがしい」感じではないですから念のため。「精神世界」を突き詰めて、ナチュラルとかロハスとか、そうした「清浄世界」にまで進んでいる、というところでしょうか。自然食レストラン、美味しいですよ。
西荻南口から出て、ちょっと左(東)に徒歩2分くらいのところにあります。
このほかにも自然食食材、無農薬野菜のお店などが周辺に散在しています。

占いや予言、精神世界関係の書籍を多く出している「たちばな出版」の本社も西荻です。「ワールドメイト」という宗教団体がバックにあるとはいえ、この出版社は、ちゃんとした真面目な会社です。「そっち系」意外でも通常の実用書や、「能楽ジャーナル」なんていう渋いメインカルチャーも扱っています。メイン&サブ双方に強い出版社、ということでしょうか。

西荻の精神世界を語る上で避けて通れないのが受験予備校「みすず学苑」です。
こちらもやはりワールドメイト系の予備校ですが、「たちばな出版」がちゃんとした出版社であるように、こちらもちゃんとした予備校ですので、念のため。「怒涛の『英語力』」がモットーです。
ただ、受験シーズンに中央線の各駅に貼られるこちらのポスターは、ヤマトタケルや楊貴妃、クレオパトラ、それに老子に孔子、わけのわからない「縄文太郎」などが登場する「???」もので、受験生の子どもを持つ中央線人を戸惑わせています。なんとも楽しい世界なので、ぜひウェブサイトをご覧下さいませ。

あ、そうだ。
西荻と言えば、かつて「霊界の案内人」として一世を風靡した故丹波哲郎さんのご自宅も西荻です。こちらは北口から北西、東京女子大近所のお屋敷街にあります。
いや、正確に言うと「ありました」。氏の没後まもなく建物が取り壊され、更地になってしまいました。かなり広い敷地ですから、このあたりの地価を考えると、相続税などの問題もいろいろあるのでしょうかね。霊界におわす丹波哲郎さんは、どのように眺めておいででしょうか。
そうそう、かつて近所では丹波邸の前の道を「たんば通り」と呼んでいる方もおいででしたっけ。ちなみに私の父は戦後GHQで丹波哲郎さんの同僚(通訳)であったため、いささか知った仲でした。

いや〜、やはり「おそれ多い」ですねぇ西荻は。
単語を見直し文章を推敲し、いささかもトラブルがないようにしないと気が休まりません。
ふ〜。
各駅紹介最後に西荻を登場させた理由が、なんとなくおわかりいただけるのではないでしょうか?





 西荻の父
     <2009/8/20>

 西荻窪の駅から善福寺公園までは、ちょっと距離があります。
吉祥寺の駅前と言っても良い井の頭公園と比べると、ちょっと不便なところにあるのですが、そのおかげで非常にしっとりと落ち着いたたたずまいを見せてくれる、大人向きの公園。上池・下池にわかれ、下池は桜のシーズンになるとイーゼルを立てて油絵を描く人たちにあふれ、また上池は広々として貸しボートもあります。まさに文化的な地域の憩いの場、と言えるでしょう。

もともとは豊富な湧き水を湛えた池(上下合わせて約37,000u)を中心とした、野趣溢れる公園でしたが、関東大震災後の、周辺の急速な宅地化などによって、その風情が失われようとしていました。けれども環境保全を望む地元の人々の尽力により、1930(昭和5)年に、この地域が「善福寺風致地区」に指定され、1934(昭和9)年には地元関係者が「善福寺風致協会」を設立。善福寺池周辺の環境保全と有効活用(行楽やスポーツでの利用)のための活動が始められました。

「風致地区」という名称はいかにも古風ですが、急速な都市化により、失われようとしている、東京市内街の美しい自然景観等を保全することを目的とした、「都市計画法」に基づく地区指定制度です。大正デモクラシーの機運に乗って制定され、まず1926(大正15)年に、明治神宮風致地区が選ばれ、次いで1930(昭和5)年に、善福寺、洗足池、石神井、江戸川の4地域が指定されています。指定理由は「水辺と林相の風景の保存とこれを開発した行楽地形成」というものでした。

善福寺公園上池のほとり、こんもりとした森の中に、一体の銅像が緑青に染まって威厳ある姿を見せています。それが内田秀五郎さん。明治の末から大正、昭和初期に、井荻村の村長をしていた人物です。彼こそが先見性にあふれた、西荻の父。私欲を棄てて地域のために尽力を惜しまなかった名村長として、遺徳を慕う人々の手により銅像が建立されたのです。
彼は、善福寺の風致地区指定にあたっても積極的に活動し、また地域の有力者の協力を得て風致協会を設立、自ら会長となって協会の活動にも関わりました。

内田秀五郎さんは、1907(明治40)年、29歳の若さで井荻村の村長に就任しました。当時の村長は住民の直接選挙ではなく村会議員による選出。内田村長の卓越した手腕に寄せる期待は、村会議員の衆望一致したものだったのでしょう。彼はその期待を上回る活躍をし、西荻一帯の今日を築きあげた、と言って過言はありません。

村長就任当時の井荻村は、まだ完全な農村。善福寺川沿いの水田のほか、麦や陸稲(おかぼ)、大根を作る畑ばかりでした。彼は農民の経済的地位の向上を目指し、さまざまな施策に取り組みました。たとえば養蚕業の推奨をはじめ、1909(明治42)年に井荻信用購買組合(現在の西武信用金庫)を設立して農家への資金融資や農業資材購入の安定化をはかる、井草八幡と新宿に青果市場を作って東京市内への販路を開く、農家が現金収入を得られるように「たくあん漬」製造を奨励するなどなど。これだけでも村民にとっては大恩人です。

また、農地の住宅地化をいちはやく見抜いた内田村長は、まず交通手段の確保が必要と考え、大正10年に中央線の荻窪駅と吉祥寺駅の中間に、新駅を誘致する運動を始めます。鉄道省も、中野〜荻窪間に新駅を作る計画と同時に、荻窪〜吉祥寺間にも一駅新設することを決定していたため、誘致はスムーズに進みました。ここで問題になるのは、例によって土地の提供、地主の反対です。けれども卓越したリーダーシップの持ち主であった内田村長は地主たちを強力に説得。自らの私財も投じ、また井荻村に別荘のあった有馬頼寧のようなお金持ちからの寄付を集めることにも成功。駅開設に必要な資金を集めることが出来ました。
同時に、新駅周辺に道路が必要と考え、青梅街道から駅までを結ぶ「三間(5.4m)道路」を開設。これもまた、地主の説得に苦労が絶えなかったようですが、なんとか成功。現在の「北銀座通り」が完成しました。
こうして周辺の環境を整えた西荻窪駅は、1922(大正11)年7月、阿佐ヶ谷・高円寺駅と同時に、無事開業に漕ぎ着けました。

やがて関東大震災。中央線沿線は市内から大量の移住者を迎えます。良好な宅地を開発することは、良好な住民を迎えることになると考えた内田村長は、1925(大正14)年11月、土地区画整理事業(井荻村耕地整理事業組合)に乗り出します。武蔵野台地が複雑に入り組み、曲がりくねった細い農道ばかりで坂道も多かった井荻村。これを出来るだけ平坦に整地し、道を碁盤の目上に太く敷き直す大事業です。これも幾多の困難を伴いましたが、1933(昭和8)年までに、総面積888ヘクタールにも及ぶ、一大区画整理事業が完成。1町が単独で行った事業としては、全国でも屈指の大事業でした。杉並区の中でも、旧井荻村地域だけが整然とした佇まいを見せてくれるのは、ひとえにこの事業のお蔭なのです。そして1926(大正15)年、井荻村は井荻町に昇格しました。

1927(昭和2)年、西武新宿線(当時は村山線)開通に際しては、上井草・井荻・下井草3駅の開設に尽力します。さらに電力や電話の開通に貢献したり、この間の活躍は枚挙のいとまがありません。
また1932(昭和7)年、増え続ける住民の需要に応えるため、町営水道を開始。善福寺公園の横にある、現在の東京都水道局杉並浄水場です。ここは23区内で唯一の地下水源の水道で、旧井荻町地域に供給。現在、浄水場からは日量1万5千トン、濾過のいらない最高の水質の、非常に美味しい水道水として有名です。

そして同じ年の1932(昭和7)年10月1日、井荻町は杉並町・和田堀町・高井戸町と合併し、東京市杉並区として生まれ変わりました。

戦後、内田元町長は、東京都議会議長、東京農業会長、東京新宿青果株式会社社長などを歴任。また善福寺公園の都立公園化にも尽力。これは私有地の提供を前提にするものでしたから、地主さんたちの反対は当然ありました。けれども、なにしろ地元に絶大な貢献があった内田元村長からの提案ですので、案外とスムーズに話が進んだようです。まさに偉大な行政家。先見の明とリーダーシップ、困難に打ち勝つ精神力と人望を集めるカリスマ性。こういう人こそ、銅像になるにふさわしい人物であったと言えるでしょう。銅像は1953(昭和28)年に建立されました。
これだけの人物が今の首長さんにいるでしょうか。総選挙の今、こういう人をこそ、政界のリーダーに迎えたいところです。

ちなみに、東京女子大学の周辺の地名は、今は「杉並区善福寺」ですが、1964(昭和39)年までは「杉並区井荻」でした。昭和7年に杉並区となったとき、井荻村からの伝統を守るために、内田秀五郎さん宅周辺を「井荻町」として名前を残したのです。西武新宿線の井荻駅(1927(昭和2)年開業)は、旧井荻町にちなんで付けられた名前ですので、この杉並区井荻とは位置が大部離れています。いまも地域の町会名が「井荻3丁目町会」なので、西武新宿線の井荻駅と離れていることに「?」と感じる方も多いのですが、これもまた、内田秀五郎さんの業績を顕彰する住民の気持ちによるものと思えば、感慨深いものがありますね。





 あなたの知らない趣味の世界
     <2009/8/31>

 ひと昔前、「骨董品」というと、「古くさい」イメージや「使用に耐えない老朽品」を指す言葉として扱われていました。時代遅れの人を
「あいつは骨董品みたいなやつだからな」
なんて陰口を聞いていました。

「古道具」という言葉もありますが、これは再利用(リサイクル)を視野に入れた言葉で、「骨董品」よりは実用に耐える品を指すようです。古典落語に「道具屋」というのがあり、これは古道具屋のこと。
「この短刀は抜けないな……う〜ん、さび付いているのかな。」
「抜けませんか。」
「う〜ん。抜けない。」
「抜けないはずです。それは木刀です。」
などというような話しが続きます。「源頼朝のしゃれこうべ(頭蓋骨)」なんていう名(迷?)品も売られていていまして、
「頼朝公は、たしか大頭の人だった筈だが、このしゃれこうべは、ちょいと小さくはないか?」
「さすが旦那、御目が高い。それは頼朝公ご幼少のみぎりのしゃれこうべです。」
なんてね。

これが「古美術品」とくると、イメージもお値段もぐっとアップするイメージで、お茶席の掛け軸や茶道具などなど、「たいへんお求めやすい○百万円」といった、庶民が気軽に楽しめる世界ではないにおいがしますね。「骨董品」と「古美術品」は、どこで線引きされるんでしょうか???

「骨董品」「古道具」「古美術品」、いずれにしましても、以前は「古臭くて」「かび臭くて」「インチキ臭い」といった「3臭」がしていましたけれども、最近はわりあい、一般人も関心が深く、しかも身近なものになりつつあるように思います。これはテレビ東京の長寿番組「開運!なんでも鑑定団」の影響が大きいのではないでしょうか。中野ブロードウエイで売られている、ウルトラマン怪獣のソフビ(ソフトビニール)人形などでは、非常に高価な品もありますが、「なんでも鑑定団」で価値が再認識された部分も大きいでしょう。

その影響からか、「アンティーク」という横文字が、こうした世界を総称する言葉になりつつあります。西洋骨董だけでなく、日本の骨董品も「アンティーク」というくくりで語られるようになり、そのおかげで「3臭」が少し薄まったようにも思います。
また、アンティークブームを社会学的に解釈すれば、人間関係が希薄になった現代であるからこそ、「手ずれの跡」「使用の痕跡」のある品物に「人のぬくもり」を感じ、愛着を覚えるような受け止め方が生まれた、とも考えられますね。

さて。骨董屋さんが集まる「アンティーク街」としては、東京では「南青山骨董通り」が有名です。青山通り、青山学院大学の先を右に曲がる道です。「なんでも鑑定団」の中島誠之助さんが命名した通りですが、現在では「骨董街」の面影はあまりなく、むしろ最先端のファッションデザイナーショップが多く建ち並ぶ地区になっています
京橋や銀座なども古美術の店は多いですが、より庶民的なのは西荻のアンティーク街です。

西荻窪駅の北口交番に、アンティークマップ(63店掲載)が「ご自由にお取り下さい」と置いてありますので、それを貰うと便利。ただ西荻は「アンティーク街」とは言っても、軒を連ねているわけではなく、駅の東西南北、特に東京女子大までの道(伏見通り)のあちこちに、ぽつんぽつんと点在している状態です。南口にもお店はありますが、若者向けやアメリカものが多いですね。アンティークショップはそれぞれ「得意分野」が明白なので、マップであたりをつけ、関心を持つジャンルのお店を中心に回ると良いと思います。

まずは窓越しに眺めましょう。こうしたお店の店主は「9時5時であくせく働く」という常識とは別の世界に生きている方が多いので、開店が午後からであることに要注意。
よくガイドブックなどに、「お店をひやかして回ると楽しい♪」なーんて書かれていますが、アンティークショップは「お土産屋さん」とは違って、「ひやかし」が大嫌いであることを肝に銘じておく必要があります。あからさまにその旨を、店頭に張り出してあるお店もあるほど。アンティークショップは基本的に趣味の店であり、同じ趣味を持つ「同好の士のサロン」という性格を持っています。そこでは「店に入ったら必ず買う」ことが要求されているというよりも、「互いに共通の話題で語り合える」ことが要求されるのです。
実は私もこのアンティーク街に「いきつけの店」があるのですが、趣味性が高いジャンルなので、まったく無関心な方が入ってこられますと、客としても良い気分がしないものです。自分の趣味を軽くあしらわれている気分になると言いますか…。

正直、一見さんには敷居が高いと思います。知識はないけど関心はある、という方は、素直に「あぁ、これは良いですね、こういうの大好きです」と話しかけ、「教えてください」とスタッフに聞くべきです。興味本位でやたらに触ったり、「これが○万円、へぇ〜、信じられない」なんていう態度は、決してとるべきではありません。自らの価値観をおとしめられたと店主に理解され、非常に気まずい思いをすることになると思います。帰るときには「また色々教えてください」がキーワード。あ、もちろん入るときも「見せてください」の一言を忘れずに。「こっちは客だぞ」と怒る方、「おかえりはあちら」です。どうせ買う気はないんでしょ(苦笑)。

なにかと面倒でしょうが、西荻のショップの良いところは、決してボラないこと。アンティークの世界でボラないのは大変素晴らしいことです。「頼朝公ご幼少のしゃれこうべ」なんてインチキを売りつけたりしません(笑)。
そうして自分の趣味と合致した、いきつけの店が増えると、「こういう品を探しておいてよ」なんて頼めるようにもなりますよ。

初心者の方は、平和島とか、お台場ビッグサイトで年に数回開催される、アンティークフェアなんかに、まず行かれたらいいと思います。何百軒もお店が出ていますし、当然、西荻にお店のある方も出店されていますから、まずそういうところでお店の概要を知り、店主の面識を得て、それから西荻の店を訪ねる、そういう流れのほうがスムーズであると思います。

なにか今回は、観光的でないと申しますか、万人向けではないお話しを致しましたが、そもそも西荻は観光地じゃありません。それに「趣味の世界」というのはこういうものなんじゃないかな、と思います。中央線人は「互いの趣味を尊重し合う」という特徴がありますが、それは互いの領域に土足で踏み込み合う、ことではありません。お互いの領域を尊重し合い、認め合うことなのです。「こんなものが○万円!」などと、自分のモノサシで他人の価値観を計る、なんていう野暮なことをしないのが中央線人の世界。そうした意味で西荻のアンティーク街は、「中央線的敷居の高さ」は、確かにあると思いますねぇ。