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 吉祥寺


 ターミナルエコー
     <2009/7/14>

 私が吉祥寺駅に初めて降り立ったのは、いまから35年くらい前のこと。
で、何に驚いたかというと、駅前……ではなく、駅上(井の頭線の駅上)ビルが、まるでうら寂しい雰囲気であったこと。
まぁ老朽化は伺えましたが、特にボロボロでもなく、ちゃんとしたビルです。
四半世紀以上前だって吉祥寺は有名で、ネームバリューのある土地でした。
その吉祥寺の駅直結ビルといえば、一等地そのものじゃないですか。
それがなぜ場末のボロビル状態???

ビルの名前はターミナルエコー。
気になって調べてみると、このビル、1970年開業とのこと。
「こんにちは♪こんにちは〜♪世界の国からぁ」でおなじみ、大阪万国博の年ですね。
複数のテナントの入る商業ビルとしての開業でしたが、おりしも地価高騰の高度成長時代。テナント料金の値上げ等がネックとなって、たちまちテナントが撤退し、もぬけのカラになったようです。駅からの動線がよくない、ビル内のエレベータ配置も悪い、といった構造上の問題もあったとのこと(その面は今も改善されていませんね、たしかに)。

こういう雑居ビルの場合、少しずつ空き店舗が出てきますと、全体の雰囲気が暗くなり客足が遠のき、その結果、またテナントが撤退するという、悪循環に陥りがちですが、ターミナルエコーは、まさにその「負のスパイラル」に嵌ってしまったわけです。そして1980年代後半にはとうとう閉鎖となったとのこと。

これだけの立地で「幽霊ビル」となれば、当然さまざまな「都市伝説」が生まれます。
 ・エコービル建設に際して立ち退きを迫られた老人が首を吊った「たたり」
 ・ビルオーナーに関連した「H相互銀行」が暴力団との関係なども噂され、内紛が多かった
 ・店内の火事で何人も亡くなった
まぁ、ありがちな内容ではありますね。
実際の所は私も知りませんが、火事はなかったと思います。

その後、総合商社イトマンの所有を経て京王電鉄の所有に。
井の頭線改札まわりの改修を行い、1995年に、手芸用品の大規模店「ユザワヤ」を誘致。
ユザワヤ吉祥寺店として多くの来客を数えるようになりました。
それから今年2009年で14年目になるわけですね〜。

そのユザワヤも来年2010年には閉店。
業績不振ということではなく、このビル自体が吉祥寺南口再開発&耐震化のために建て替えになることによります。
南口はバスが通たびに警備員の警笛が響き、人が右往左往する状態でしたから、こうした再開発もまた、仕方がないのでしょう。
井の頭線高架下店舗の立ち退きにかかわる悲喜こもごものお話しもいくつか聞いたことがあります。
(そのお話しはまた後日)

築40年で建て直しとなる吉祥寺エコービル。
さて次のビルはどんなものになり、どんな変化を吉祥寺にもたらすのでしょうか・・・。

※余談ですが、築30年40年というと大変な老朽物件という気がします。けれども、日本の高層建築第一号として有名な霞ヶ関ビルは1967年、新宿副都心の京王プラザは1971年、同じく新宿住友ビル1974年、完成当時は東洋一の高さを誇った池袋のサンシャイン60は1978年。のきなみ老朽物件ということになります。
そうは見えませんけれどもね〜。





 時代の生き証人
     <2009/7/21>

 いまの季節に桜の話しもいかがなものかとは思うのです。
ですが、忘れないうちに書いておこうと思います。
また場所が西荻と吉祥寺の中間あたりなので、どの分類に入れたものかと迷いました。わずかに吉祥寺よりのような気がします。

春になると中央線沿線も桜が見事に花開きます。
高架を走る車窓からは、あちらにポワッ、こちらにポワッと満開の桜を数えることが出来、
「ああ、あんなところに桜があったんだな」
と気付かせてくれます。

桜と言ってもさまざまですが、こうした遠目で見て美しいのはやはりソメイヨシノですね。いちどきに咲く見事さ、ボリュームと淡い色合い。まさに桜の中の桜でしょう。
このソメイヨシノは江戸末期〜明治初期頃に駒込あたり染井村の植木職人が、エドヒガンとオオシマザクラを交配して生まれたと言う説が有力です(自然発生説もあります)。
つまり比較的最近に生み出された品種なので、私たちが見る桜のイメージ(パッと咲いてパッと散る)は江戸時代以前の人の桜観とは異なる、ということは案外知られていないことです。

ソメイヨシノは異種交配種なので、基本的に子孫を残すことが出来ません。全国の数多くのソメイヨシノは、接ぎ木によるクローンなのです。
また寿命も短く、一般に60年ほどとされています。
しかしこれも根拠が曖昧です。なにしろ品種が生み出されてからの歴史が浅いのですから、樹齢何百年なんていうソメイヨシノが存在しようがありません。
ただクローンであるため、同じ病気に感染したり環境の変化による劣化が同時進行したりで、一斉に枯れるという現象が生じやすく、そのために「弱い」という印象を与えているのかもしれません。

さて。
今日お話しする桜はソメイヨシノではなく、八重桜です。
車窓から見える沿線のソメイヨシノが散ってしまったあと、2週間くらい後にバトンタッチをするように八重桜の仲間は満開を迎えます。
毎年、
「ああ見事だなぁ」
と感動するのが、その西荻と吉祥寺のちょうど中間あたり、北側に見える八重桜です。
むかし武蔵野自動車教習所があったところからわずかに吉祥寺よりのところです。
樹勢、花つきの見事さ、色合い。
どれをとっても素晴らしい八重桜。毎年、わざわざ吉祥寺駅から歩いてそこを訪れ、ぽってりとした量感ある花の下からわずかに透ける青空を楽しんでいます。

それが今年についてはチャンスを逃してしまいました。
ソメイヨシノ開花から2週間後くらいに行ってみましたら、もうすっかり盛りを過ぎ、さびしい状態の葉桜になりかけておりました。これも地球温暖化の影響?!
けれども収穫がありました。
ご近所の方が花びらの掃除をされていたので声を掛けてみたのです。
「お掃除お疲れさまです。それにしても見事な桜ですね。毎年楽しませていただいております。」
「ええ。掃除は大変なんですが、やはりこの桜の下で暮らせるのは幸せなことだと思いますね。」
「ところで、この桜はいま樹齢何年くらいなのでしょう?」
「………」
その方はしばし考えるようにして
「私たちがここに来るずっと以前のことなのでなんとも……。市役所の方が言われるには、最低でも180年は経っているはず、ということです。」
「180年前から!……それって江戸時代じゃないですか!」

驚きました。
ソメイヨシノとは違い、こうした桜は樹齢数百年に及ぶことは珍しいことではありません。
それにしても180年以上もの間、こうして多くの人を喜ばせていたんですねぇ。感動です。
180年前のこのあたりは、武蔵の国は多摩郡吉祥寺村です。
ちょんまげをしたひとが行き交っていたのでしょう。この桜の木のある場所、このあたりは「本宿」という地名であり、その名が示すように、なんと吉祥寺村の中心地だったのです。鷹狩に来た将軍の一行が休憩するため、五日市街道がここらあたりだけ広かったそうです。

江戸末期頃は、ある意味で任侠世界の博徒が地方の権力を握っていました。「清水の次郎長」などのイメージですね。彼らは警察的な任務も帯びていました。江戸時代は各地の領主が警察権を持っていましたが、細かく複雑に入り組んだ境界線を自由にまたいで捜査できるのは、役人ではなく、彼ら博徒だったのです。
幕末、いまの中央線沿線一帯は「小金井小次郎」親分が支配し、子分はその数、三千人。その配下として吉祥寺を縄張りにしていたのは、「四軒寺の藤蔵」親分さんでした。藤蔵親分は天保元(1830)年の生まれ。豊かな材木商の息子で、現在の五日市街道沿いにある鳥惣菜店「鳥一」あたりが家(組事務所?)だったとか。
そうした親分衆も、花見の頃はこの八重桜を見物していたのかも知れません。180年前といえば、ちょうど藤蔵親分が生まれた天保年間のことですね。
なお、四軒寺一家は、明治になってから高円寺に本拠を移しています。

ちなみに……
吉祥寺駅は当初、この桜の木のある本宿が設置候補地だったそうです。村の中心地であり、五日市街道との交差点でもありますから。けれども汽車の煙突から出る火の粉が、火事の原因になるということで、地元地主の方の反対に遭い、とん挫しました。地主さんの家がその少し前に火災で焼失したことがそうした反応のもとになったようです。
困った甲武鉄道に救いの手をさしのべて土地を提供したのが、四軒寺のうちの、月窓寺・蓮乗寺・光専寺。そのせいで今も吉祥寺駅周辺の大地主はお寺さんなのです。もしも本宿に駅が出来ていたら、あの桜も伐採されていたかもしれないと思えば、世の転変というものに思いが到ります。

さらにちなみに。
武蔵野自動車教習所の跡地は積水の分譲住宅地になり、その名前がなんと「桜の杜」!
エリア内(外部者侵入不可)には20種類60本以上の桜が植栽されています。これは偶然なんでしょうかね。

このほかに八重桜が見事なのは荻窪駅やや西より、環八と交差するところにある光明院の墓地の桜。
こちらは花の色が濃いタイプの八重桜。色味がちょっと重すぎるようにも見えます。仏教寺院にはこのほうが雰囲気が良いのかも知れません。

でも。
桜の話しはやはり春にしたいですね。
来年の春、またあちこちの桜を楽しみたいと思います。





 かつての夢の国
     <2009/9/3>

 デパート。関西ではいまだに古めかしい「百貨店」という呼び方が主流です。「デパート」は、スーパーマーケットの大きいの、というイメージですね。
私が子どもの頃、百貨店は夢の国でした。一家で出かけるときは「よそいき」(盛装)に着替え、まず行きたいのは5階のオモチャ売り場。なぜかオモチャ売り場はどこの百貨店でも5階あたりに位置していたように思います。父はもともと買い物にあまり興味のない人でしたが、母はご多分に漏れず婦人服売り場の「特売」に夢中になっており、早くオモチャ売り場に行きたい私は、たくさんのご婦人方のお尻に夾まれて右往左往、必死に母の手を握り、しばしツライひとときを過ごさねばなりませんでした。

多々買い…いえ、戦い終わってお昼は上の階の「お好み食堂」(大食堂)。和洋中何でもござれで、各種食品の匂いが入り混じった独特のにおい。まず食券を買って入ります。自動販売機じゃありません。むかしの鉄道切符のような「硬券」で、テーブルに置いておくとウエイトレスさんがやってきて、半分ちぎります。テーブルには半券が残り、食事現物が届くと引き替えに持って行かれるシステム。いや、そこに行くまでにも難関があります。それは座席の確保。当時、日曜お昼の百貨店の「お好み食堂」は、常に超満員でしたから、家族単位のまとまった空席を見つけるのは大変でした。それで、まず入口で父が自分の食べたい品を宣言し、私たちが「お子さまランチ」にするか「オムライス」にするか「エビグラタン」にするか迷っている間に、ひとりで空席ハンティングに出かける、という方式を採っていたように記憶しています。そうそう。「お子さま用の椅子」も確保しなければなりませんね。

食後には屋上遊園地。これもまた最高に楽しいものでした。今から思えば、実にちゃっちいアトラクションでしたが、子ども心には、テレビで見るディズニーランド(そういうタイトルの番組がありました)なみに興奮したものです。あれで幸せだったのですから、人間「足を知る」ということが大切なんでしょうね。

いま、このデパート業界が大変な苦境にあるようです。
2008年の全国の百貨店売上高は12年連続でマイナス。これはもう、業界全体の構造的な問題のように思えて仕方がありません。むかしは、「百貨」というネーミングのように「なんでもある」ことが一番のウリでした。そして品質保証と丁寧な接客。品物と共に、安心と誇りというイメージを売っていた、という面がありました。御中元は三越の雲形定規の包み紙でなければ…、みたいな。

現在、そうしたニーズは壊滅的なんじゃないですか。都会ならどこにでも品物が溢れ、かつては百貨店にしかなかったブランドショップも、単独直営店が多くなっています。品物の品質が向上したので、なにも百貨店の保証なんか要りません。同じ品なら包み紙がどうでも構わない、という「名より実」の発想が当たり前になっていますよね。昔とは価値観が激変しています。食事も「お好み食堂」より個別の飲食店に行きますでしょ。それに、百貨店毎の特色がなく、どこの百貨店・店舗に行っても、同じメーカーの同じ商品。値段も同じ(しかも定価!)。これでは家具・家電・洋服、すべて「安い大型専門店があるのに、なんでわざわざ百貨店に行かなきゃなんないの?」ということになってしまいます。

吉祥寺は、以前は近鉄百貨店、伊勢丹、東急百貨店、南口に丸井、4つの百貨店がありました。近鉄は三越になり閉店、いまはヨドバシカメラになっています。そして伊勢丹も、来年2010年3月で閉店することになりました。伊勢丹は、売り場面積が20,758uと小さいことがネックとなったのかもしれません。吉祥寺店は、伊勢丹の直営7店舗中最小の面積です。ライバル東急百貨店吉祥寺店は、売り場面積31,731m2。やはり、伊勢丹の不利は否めませんね。そんな狭い伊勢丹が、食品・服飾・貴金属・玩具・家具寝具などなど、総花的な、昭和的「なんでもある百貨店」の志向であるのに対し、東急はブランドショップの充実など、より「専門店」志向であることも、両者の明暗を分けるカギになったのかもしれません。

いま百貨店は売り場面積の大きい(40,000u超)店舗だけが生き残る世界になっているようです。小さな店舗は「専門店ビル」化することによってのみ、存在意義を見いだせる、ということです。伊勢丹の場所が今後どうなるのかは、門外漢の私の知る由もないことですが、服飾系の専門店ビルになりそうな気がします。メインはユニクロかな?あ、でもユニクロは一昨年、ヨドバシカメラ7階に約480坪の大型店舗を新設しましたから、それはないか。家具のIKEAがトレンド?地下食料品売り場は高級志向の「クイーンズ伊勢丹」ならば集客力がありそうです。以前、吉祥寺で高級食材を売っていた「三浦屋」が撤退してしまいましたので、そのあたりが狙い目?

伊勢丹は自社ビルではなく、武蔵野市が再開発した「F&Fビル」のテナント。大家さんの武蔵野市開発公社も頭が痛いことでしょう。伊勢丹のすぐ裏手にある「武蔵野市商工会議所」としては、伊勢丹跡地に「街のグレードを高める集客力ある企業」の誘致を図りたい、という考えだそうです。そりゃそうでしょうけれど、それは一体何なのよ、ということですね。やはりファッション系専門店ビルが有力のようですが、高級高額なブランドではなく、若者に人気のH&Mやフォーエバー21など、外資系SPAが入る専門店ビルを待ち望む声が多いようです。
そうそう、FFビルの7階には「武蔵野市立吉祥寺美術館」がありますが、いまひとつの規模。どうせなら拡張して、文化都市武蔵野をアピールすることも大切じゃないですかね。

東急百貨店のほうも、うかうかとはしていられないと思います。売り場面積が40,000uに満たないですし。ただ、東急を裏で支えているのが、文字どおり「東急裏」と呼ばれるゾーン。吉祥寺に遊びに来る若者は、「吉祥寺で楽しいのは『東急裏』」と、声を揃えます。ファッションアイテムやアクセサリー、CD等音楽系のショップ、そして飲食店。いかにも若者が好みそうなお店が、良い感じにゴチャゴチャ並んでいて、これは集客力があります。東急吉祥寺店は、その「東急裏」の表(なんのこっちゃ?)という立地が活きてくるように思います。

吉祥寺は、あいかわらず「住みたい街」ナンバーワンの座にありますが、商業地としての神通力は低下しているように肌で感じます。立川の発展による相対的地位の低下、伊勢丹の跡地問題、この10月からの吉祥寺駅改良工事、それに伴うユザワヤ閉店後の動向、気になるところです。いっそユザワヤが伊勢丹跡に移れば、万事解決?

それにしましても……栄枯盛衰は世の習い。
以前、近鉄・三越百貨店があった頃、隣の家電量販店Laoxは賑わっていました。けれども三越が巨大なヨドバシカメラになった後は閑古鳥。それも仕方がないでしょう。いま、Laoxの跡地は仏具屋さんになっています。高齢化の日本。これからは若者向けのお店よりも、こうしたお店のほうが儲かるようになるんでしょうかね???

…って、実は今日の書き込み、ある話題の前フリをしようとして書き始めましたら、こんな量になってしまいました。本編はまた後日。

※2010年10月の追記
伊勢丹跡地は、2010年10月15日に「コピス吉祥寺」としてオープン。
「フードテラス」「ファッション&グッズ」「ママキッズテラス」「ライフスタイル&カルチャー」の4つのフロアコンセプトで展開、。延べ床面積は46,021m2。109店舗が出店します。
気になるテナントは、高級スーパー「三浦屋」が復活!!これはうれしい。吉祥寺最大の書店となる「ジュンク堂書店」、登山とスキー用品の「ICI石井スポーツ」(最近の山ガールブームの影響?)、おもちゃの「キディランド」。これは楽しいお店ばかり。服飾系の専門店ビルでなくて私は大満足です。ファッションショップはH&Mやフォーエバー21などは入らず、メインは「ユナイテッドアローズ」だそうです。





 吉祥寺ものがたり
     <2009/9/9>

 「火事と喧嘩は江戸の華」なんていう、乱暴というかヤケクソな言葉があります。
たしかに江戸時代は大火が多く、江戸市中では96回(ほぼ3年に1度)の大火があったと言われています。その中でも一番の大火は「明暦の大火」。1657(明暦3)年1月のことで、江戸市中を焼き尽くし、死者は一説には10万人とも言われます。江戸城本丸まで焼け落ちるという猛火で、これによって江戸の町は、それ以前の安土桃山風の絢爛豪華な文化を失い、新たな時代を迎えます。大奥の女性達が、それまでの垂髪から日本髪を結うようになったのも、それ以後のこととされます。

江戸をまったく変えてしまった明暦の大火。通称「振袖火事」と言われます。女性3人を死に至らしめた因縁ある振袖を、本郷の本妙寺で焚き上げ供養している途中、突如振袖が舞い上がり、寺に火がついて…という説が古くから語られていました。
けれど当の本妙寺では、近隣の阿部家(幕府重役)の失火の罪を被ったと説明していますし、幕政に不満を持つ法華宗や朝廷が実行した、幕府転覆を目的とした連続放火であるとか、江戸の都市計画をやり直そうと、幕府自体が放火をしたとか、さまざまな説が流れています。
さて、この明暦の大火で、水道橋(現在の都立工芸高校のあたり)にあった寺院も焼けてしまいました。その寺の名は「吉祥寺」です。

吉祥寺の歴史は古く、1458(長禄2)年の創建。太田道灌が江戸城を築城したとき、和田倉付近の井戸から「吉祥増上」と刻まれた金印が発見されました。道灌はこれを喜び、高僧を招いて城内西の丸に「吉祥寺」を建立したのです。1590(天正18)、徳川家康が江戸城に入ると、翌年に吉祥寺は寺領50石を与えられ、城外の水道橋に移されました。ここで明暦の大火に遭うことになったのです。

吉祥寺は単なる寺院ではなく、一大教育機関でもありました。1592(文禄元)年に創設された学寮がそれで、禅の実践、仏教の研究、漢学の振興を目的にしていました。のちには七堂伽藍を具え、幕府の「昌平坂学問所」と並ぶ教育研究センターとしての役割を果たすまでに成長します。常時1000人以上の学僧を抱えていた吉祥寺学寮は、その食費や諸経費を賄うため、郊外の多摩郡に寺領を持っていました。

明暦の大火と翌年の大火(吉祥寺大火とも)により、江戸市中は焼け野原。幕府は江戸を都市計画に基づいて復興することに着手します。それ以前の江戸は戦国時代の名残で防衛都市。交通の往来は意図的に不便にされており、大規模な発展はしにくい町並みだったのです。新しい都市計画により、水道橋にあった吉祥寺は本馬込の広大な敷地に移転させられることになりました。

寺の前には門前町が形成されるのが世の常。水道橋の吉祥寺の門前にも多くの人々が住んでいましたが、彼らも大火で罹災。本駒込への吉祥寺移転に際して、幕府はそうした人々を駒込には移住させず、お寺の領地(吉祥寺学寮の賄い地)であった、多摩郡牟礼野の新墾地に移住することを命じました。1659(万治2)年のことです。
浪人佐藤定右衛門、宮崎甚右衛門を中心とする旧門前町の人々が開拓した新しい村こそ「吉祥寺村」。人々の努力の末、1664(寛文4)年には検地が行われるほどの田畑がつくられていたのです。この吉祥寺村こそが、現在の中央線の吉祥寺であることは、言うまでもないでしょう。そのようなわけで、高円寺には「高円寺」がありますが、吉祥寺には「吉祥寺」はありません。

ちなみに。
明暦の大火の年、吉祥寺学寮を訪れた中国の名僧「陳道栄」は、その研究内容と学僧の知識教養レベルに感動。学寮を「旃檀林(せんだんりん)」と名付けました。この名称は『証道歌』にある「旃檀林に雑樹無し、鬱密深沈として獅子のみ住す」(優れた者が集まる場所に、つまらない者は寄り付かない)から取られたものです。今も本駒込の吉祥寺には「旃檀林」と大書された額が掲げられています。
江戸時代に大発展した吉祥寺の旃檀林は、明治になって青松寺学寮(獅子窟)、泉岳寺学寮を統合して「曹洞宗大学林専門本校」となり、現在の駒澤大学へと発展しました。高校野球で活躍している「駒大苫小牧」はその付属高校。同校の校歌には「旃檀林」という単語が登場していますが、それが吉祥寺と密接な関係を持っていることをご存じの方は、当局者以外では少ないようです。

1682(天和2)年12月、江戸でまたもや大火が発生します。本郷に住む八百屋、太郎兵衛さん一家は、大勢の人々とともに駒込の吉祥寺(近隣の円乗寺説あり)に避難しました。さてその吉祥寺には、美貌の寺小姓「生田庄之助」(吉三郎説あり)がおりました。さて太郎兵衛さんの16歳の娘、彼の美貌に一目惚れ。やがて再建した自宅に戻った後も、その面影が忘れられません。「火事になれば彼にまた会える」。そう思いこんだ娘は、なんと放火未遂を起こしてしまいました。そして逮捕され、あわれ鈴が森の刑場で火あぶりとなって短い生涯を閉じました。彼女の名は「お七」。そのため天和の大火を通称「お七火事」とも申しますが、その大火そのものはお七の放火ではありません(誤解されている方が多いようです)。お七の放火はほぼ未遂に止まっているとされます。

なお、お七は丙午(ひのえうま)の生まれという説があり、それゆえ「女性の丙午生まれは…」という俗説が生まれた、と一般に信じられております。この俗説は1966(昭和41)年の丙午でも生きていて、この年の出生数は極端に少ないのです。ことし43歳になる皆さんですね。次回の丙午は2026年。少子化の日本、どうなっていることでしょう。根拠のない因縁話から、日本人が卒業していることを願いたいものです。
(それより……その時、わたし生きてるかな・笑)





 幻の鉄道計画(2)
     <2009/9/15>

 吉祥寺駅の北口に「ハーモニカ横丁」という、戦後の闇市を彷彿とさせるような「昭和レトロ」な商店・飲食街があります。道幅1メートルあるかないか、というような路地裏感たっぷりで、今はそういうのを好む人も多く、若者たちで賑わっています。こういう光景を目にしますと、すぐに「再開発」とか「地上げ」「立ち退き」といった単語が浮かんでくるのですが、ハーモニカ横丁は依然として、闇市的な姿を保ちながら吉祥寺駅前一等地で営業を続けています。

吉祥寺駅は、1899(明治32)年、まだ私鉄であった甲武鉄道の駅として開業しました。甲武鉄道の当初案としては、五日市街道と交差し、江戸時代からそれなりに栄えていた本宿地区(現在の吉祥寺駅から500mくらい新宿寄り)に吉祥寺駅を開設したかったようです。しかし、地主の反対であえなく挫折。やむなく四軒寺(安養寺・光専寺・蓮乗寺・月窓寺)の協力を得て、お寺の所有地であったところに駅を開設しました。これが現在の吉祥寺駅の場所です。そうした経緯から、吉祥寺駅前の土地は、現在でもその多くが四軒寺(特にサンロード西友前にある月窓寺)の所有地であり、地上げや立ち退きといった強制手段を伴う再開発とは無縁だったのです。よく「お寺さんは大地主だから良いナ」なんていうヤキモチの声も聞きますが、そもそもお寺の協力があったればこその吉祥寺駅なのですからね。仕方がないと言うべきか、お寺に先見の明があったと捉えるべきか…。

さて。
昨日に引き続きまして、吉祥寺・三鷹がらみの鉄道新設ばなしなんぞを。
昨日の「武州鉄道」新設計画は、たぶんに「山師」的な臭いのするものでしたが、今日のお話しは、より具体的で実現可能なもの。それは京王帝都電鉄による、「井の頭線延伸計画」でした。これは吉祥寺から北西方向に線路を延ばし、成蹊大学を経由して、西武新宿線の田無駅に至るという計画でした。

新宿と八王子を結ぶ京王線と、渋谷〜吉祥寺間の井の頭線は、車輌の色や形がぜんぜん違います。線路の幅も京王線は1372mm、井の頭線は1067mmと異なり、とても同じ会社の路線とは思えません。それもそのはず、1933(昭和8)年に渋谷〜井の頭公園間が開通したとき、京王電鉄とは別の会社の路線だったのです。それが「帝都電鉄」。親会社は「鬼怒川水力電気」という電力会社でした。戦前は多くの民間発電会社があり、発電会社の子会社として電気鉄道事業がよく設立されていたのです。なにしろ発電会社が親方ですから、「電力コスト=原価(しかも水力発電)」ですものね。良い副業?です。

1940(昭和15)年、帝都電鉄は、同じ鬼怒川水力電気の子会社である小田原急行鉄道に合併され、同社の「帝都線」になりました。更に戦時中には国策により、小田急電鉄が東京横浜電鉄に合併されて、帝都線は「東京急行電鉄井の頭線」となりました。そして戦後、GHQにより巨大な東急グループが分割解体され、井の頭線は元来無縁の京王電気軌道と組み合わされて独立、「京王帝都電鉄」の井の頭線となりました。1948(昭和23)年のことです。現在では会社名から「帝都」の名称が消えて、ただの「京王電鉄」になっています。

個人的には「帝都」というレトロな名称は面白かったのですが…。地下鉄「東京メトロ」の会社名は「東京地下鉄」ですが、ちょっと前までは「帝都高速度交通営団」だったことは記憶に新しいところですよね。なんともロマンチック?な名前だったように思うのです。
あ、それから。下北沢駅で、井の頭線と小田急線が改札無しに乗り換え可能なのは、井の頭線が小田急の帝都線であった時代の名残なんだそうです。

さて、その井の頭線。開業の翌年(昭和9年)に吉祥寺まで延伸し、中央線と結ばれました。昭和23年に井の頭線を引き受けることになった京王帝都電鉄としましては、井の頭線が全線で12.7kmと短く、乗降客の増加を図るには、吉祥寺からさらに延伸させることが望ましいと判断。田無まで延ばすことを計画しました。その追い風となったのは、以前三鷹の回でお話しした中島飛行機武蔵製作所の跡地、グリーンパーク再開発計画。1947(昭和22)年頃、ここに競輪場か野球場を建設するという話しが浮上したのです。武蔵野市は税収ウハウハの競輪場を望んでいたらしいのですが、ともかくそういう施設が出来ると、乗降客数の大幅なアップが望めますからね。京王帝都、本気モードです。

それにそもそも、一番最初の計画では、井の頭線は東京西部をC字型に囲むような環状線的存在を目指していたのです。帝都電鉄の前身は「東京山手急行電鉄」。大井町〜自由が丘〜明大前〜中野〜江古田〜板橋〜田端〜北千住〜洲崎間50kmの開設免許を得ていました。そうした歴史から、長年の夢に少しでも近づけたいという気持ちもあったのかも。

1949(昭和24)年頃に京王帝都の動きは具体的になります。とは言え、前述のように吉祥寺北口はゴチャゴチャした商店街。京王帝都は地主であるお寺や商店主と交渉を重ねますが、どうにもラチがあきません。鉄道用地提供の問題もさることながら、「始発駅」か「途中駅」かでは、街の価値がだいぶ変わってしまいますからね。そこは反対したくなる気持ちも判らないではありません。

京王帝都は吉祥寺からの延伸は無理と計画を断念。けれどもグリーンパークとの接続はなんとか実現したいと考え、必殺技を用いました。それは、吉祥寺でなく三鷹から田無へ向かう案。井の頭線途中の富士見ヶ丘から分岐させ、下連雀の日本無線、三鷹、そしてグリーンパークを経由し、東伏見稲荷を通って田無までを結ぶ9kmの路線(三鷹線)を新設するという計画でした。正式な開設免許申請も出しています。

ところがまたまた反対運動が起きました。主な反対者は三鷹駅北西にある高級住宅地「西久保(当時は西窪)」の住民。なかなかのセレブも住んでいましたから、反対運動は上品でも強力。なにしろ西窪には、グリーンパークの社長である松前重義さんの邸宅もありましたし…。結局、この計画も頓挫してしまうことになりました。

そうこうしている間に、1950(昭和25)年、三鷹駅から野球場へとつなぐ国鉄の支線、武蔵野競技場線(グリ−ンパ−ク線)が工事に入ります。三鷹から球場までの路線は完全にダブってしまうために免許が下りるはずもなく、京王帝都は申請を取り下げて、吉祥寺からの延伸という原点に立ち帰りました。吉祥寺から北西に進み、武蔵野競技場から田無、そして更に西武池袋線の東久留米までの9.5kmが新しい案でした。5万人収容の大球場「東京スタディアム」(グリ−ンパーク野球場)との接続、西武の池袋&新宿両線からの集客という、かなり狙い目の計画であったと思います。

けれども又々反対運動に直面します。前回案の時のような、吉祥寺駅北口の商店主たちの猛反対はもとより、今度は西武鉄道が乗り出してきました。東久留米や田無以西のお客を、京王帝都に持って行かれてしまう可能性がありますから、西武にとって放置できる問題ではありません。当時の西武の社長は、強引な商売で「ピストル堤」と渾名された堤康二郎。黙って見ているようなタマじゃありません。

それに西武も昔から中央線と接続する計画を持っていました。西武鉄道の源流をなす会社は数多いのですが、その一つ「村山軽便鉄道」は、陸の孤島状態であった狭山丘陵地区と都心を結ぶ線路の開設免許を1915(大正7)年に受けていました。これは箱根ヶ崎〜東村山〜田無〜吉祥寺間を結ぶものです。この計画は二転三転して現在の西武新宿線となりました。また西武の前身の別の会社である「西武軌道」(のちの都電杉並線)は、荻窪から田無までつなぐ免許を得ていました。これらの経緯があることから、西武は京王帝都に南北連絡線を開設させたくなかったことでしょう。

西武は既設の多摩川線(かつての是政線)に目を付けます。多摩川線は1917(大正6)年に「多摩鉄道」により開業した路線で、武蔵境〜是政を結び、多摩川の砂利を運搬することが主目的でした。1927(昭和2)年に西武に吸収合併され、のちに中島飛行機の引込線的にも利用されましたが、いまひとつ脚光を浴びていない路線でした。これを武蔵境から延伸させ、グリーンパークを経由して上石神井まで延ばすことにしたのです(同時に是政から東京競馬場経由で多摩ニュータウン方面へも延伸を計画)。正式な免許申請も出しています。

ところが!!
フタを開けてみれば、「東京スタディアム」(グリ−ンパーク野球場)は大コケ。1951(昭和26)年の4月に開業したは良いものの、初年度のプロ野球開催試合数はわずかに16。まったくの閑古鳥状態で、せっかくの国鉄専用線も翌年には休止。5万人球場が泣きました。これほど見事な大コケは、イベント・プロモーション史上、希なのではないでしょうか。

……ということで、京王帝都の計画も西武の計画も、球場コケれば皆コケた、ということで、免許申請は取り下げ。すべてはご破算になってしまいました。

井の頭線を通って、渋谷や下北沢からは、なんとなくハイカラ?な、青山学院的な雰囲気が伝わって来ています。早稲田的バンカラ?な中央線文化と、青学的ハイカラ文化の接合点。それが吉祥寺の人気を高めている一つの要因のような気もします。もしも井の頭線が田無・東久留米につながっていたら、埼玉方面から中央線に、どんな風が送られてきたでしょうね。想像してみるのも楽しいものです。





 青春のおもひで
     <2009/9/16>

 大学に入って最初に吉祥寺に行ったのは、今から30数年前のこと。いや、本人には「つい昨日のよう」に思えるのですが、もうそんなに経ってしまいました。
 当時、私は西武新宿線の上石神井と武蔵関の中間あたりに住んでおりました。中央線沿線はアパートの家賃が高く、貧乏学生のアタクシには到底無理。どうしても西武線沿線ということになってしまいました。毎晩安酒で酔っぱらい、高田馬場から「拝島・多摩湖行き」なんていう電車に乗って帰宅しておりましたっけ 。乗り過ごして田無なんかで目が覚めることも度々でした。

上石神井から吉祥寺行きのバスがあり、これを利用すると早ければ20分ちょっとで吉祥寺に行くことが可能でしたので、よく利用しておりました。で、まぁ世間一般の共通認識である「自堕落な若者の無為な時間の使い方」をして過ごし、たまに喫茶店へ。気に入ってよく入った店が、五日市街道にある「天子峰(てんしぼう)」という純喫茶。カレーライスが美味しくて、なによりママさんが話し好きで、同じく話し好きの近所の方々の社交場でした。私も人後に落ちぬ話し好きですから、こういうお店は大好物。

このあと「懐かしいなぁ……」と話しを継ぐのが世の常ですが、実は天子峰は今も現役。私も時々顔を出します。珈琲300円という価格は、何と昔のまま。カレーライスの家庭的な美味しさも昔のまま。お話し好きのママさん&近所の方、昔のまま。ただひとつ違うのは、私を含めた登場人物の年齢が、全員三十数歳加算されているということ。でも精神的にはまったく昔のままです。お店はさすがに古ぼけて来ましたが、メンテナンスと掃除をキチンとされているために清潔感はバッチリです。こういう「街角の純喫茶」、いつまでもこのままであって欲しいと、心から願います。

吉祥寺に遊びに行ったのは、テレビドラマ『俺たちの旅』の影響です。ご存じの方も多いと思いますが、私と同年代に青春を過ごした人々の絶大な支持を受け、大きな精神的影響を与えたドラマだと思います。中村雅俊演じる、修学院大学生のカースケ。同級生オメダ(田中健)と、カースケの小学校の先輩である、早稲田OBのグズ六(秋野大作)の三人が繰り広げる、涙あり笑いありの青春ドラマでした。そうそう、秋野大作は、まだ「津坂匡章」という芸名でしたっけ。
 第一話で、カースケの恋人?山下洋子役を演じた金沢碧さんが、いきなり更衣室で上半身ヌードになるシーンがあってから、もう釘付け(笑)。視聴率稼ぎの作戦だったのでしょうが、まんまと引っかかり、毎週期待して見ましたが、二度とそう言うシーンは登場しませんでした。残念。

ここでドラマの詳細を述べることはしませんが、楽しいながらも「生きることの意味」を考えさせてくれる内容でした。両親のあっけない死を経験し、「人間いつ死ぬか判らない。その時その時を楽しく生き、死ぬときに後悔だけはしたくない」というカースケ。神楽坂の料亭の息子、女系家族出身でおとなしく、マイナス思考のオメダ。堅実なサラリーマン志向でも、何をやってもドジばかり、でもそれが母性本能をくすぐって女性にモテモテのグズ六。極端ながら、人間の様々な側面をクローズアップした人間像が、鮮明に描かれていたと思います。

3人の中で、やはり人気だったのは、カースケ的な生き方。多くの学生は「ああなりたいな」と思いつつ、どちらかと言えばグズ六(ただし現実にはモテない)タイプに流れていくのです。私もカースケ的生き方を目指し、そうですね、今でもなんとかその信条を保ちつつ暮らしております。誰もがいつかは必ず死ぬ。そのことから逃げ出し得ないのであれば、毎日を精一杯楽しく、充実して生きよう。今もそう思っています。……ま、いつまでもバカ、成長していないということなんでしょうけれどもね。

その『俺たちの旅』のロケ地が中央線沿線、吉祥寺周辺でした。彼らの住むアパート「たちばな荘」の住所は架空の「吉祥寺1−3番地」でした。ロケに使ったこのアパートは、なんと杉並区方南2丁目に現存しているそうです。オープニングで彼らが入る噴水は、今はなき新宿コマ劇場前の噴水。実は私も大学時代、何度か飛び込んでバカやりました(苦笑)。『俺たちの旅』は1999年に後日談を描いたドラマが放映されたのですが、その時にはもうコマ劇場前の噴水は無くなっており、高円寺北口駅前の噴水で撮影したとか。やっぱり中央線だぁ〜。

たちばな荘は、井の頭公園の近くという設定であったので、彼らが井の頭公園で遊ぶシーンがよく登場しました。グズ六と上村香子さん演じる婚約者「紀子さん」が、手をつないで上っていた階段は、井の頭線の「井の頭公園駅」に上がる階段です。なんでグズ六が、あんな美人と仲良くなっているのか、テレビの前で世の理不尽さを嘆いたものです(笑)。

エンディングでも、井の頭公園の噴水(池の向こうにはパークサイドマンション)が映りました。それを背景に、毎回、説教臭いけれども泣かせる詩が出てくるのです。たとえば…

 明日のために
 今日を生きるのではない
 今日を生きてこそ
 明日があるのだ

最終回は

 カースケはカースケのままで
 グズ六はグズ六のままで
 オメダはオメダのままで
 男の人生は
 それでいいのだ

ね、良いでしょ?
人それぞれの人生を、相対的にではなく絶対的に見よう。自分のモノサシで人を計ることは決してすまい。そう思い、私は今も生きています。

そうそう。カースケの大学「修学院大学」は名前のイメージでは学習院っぽいですね。オメダも含め、なんとなくイメージ涌きます。でもロケ地は国分寺の津田塾女子大だったのです。今日の豆知識コーナーでした(笑)。





 前へ進む人たち
     <2009/9/18>

 かなり以前のことですが、吉祥寺東町(吉祥寺と西荻の中間、線路の北側)の住宅街をフラフラと散歩しておりますと、ある一軒の邸宅の表札に目が止まりました。「河原崎」とあります。何気なく垣根越しにお庭を拝見したら、なんと「河原崎長一郎」さんが、庭仕事をされていました。河原崎長一郎さんと言えば、「やさしく真面目なお父さん」のイメージでたくさんのドラマに出演された名優。私も昔から顔なじみのような気持ちで、ついお声をかけそうになりましたが、オフでいらっしゃる芸能界の方に、気軽に声を掛けることはマナー違反。そのまま行きすぎてしまいました。けれどもその後、2003(平成15)年に河原崎さんが64歳の若さで亡くなったと聞いたときは驚き、ああ、あのときお話しできていたら良かったな、と思いました。後悔先に立たず、です。

中央線の下りに乗って、吉祥寺にさしかかるちょっと手前、進行方向左側(つまり線路の南側)、武蔵野市立第三小学校の先に見える、ある屋上看板があります。大きな看板で
 前 進 座 劇 場
と読めます。河原崎長一郎さんは、その前進座創設メンバーの一人であった、四代目・河原崎長十郎さんの息子さんです。ほのぼのムードの長一郎さんのイメージとは異なり、父長十郎さんは猛烈と言っていいほどの共産主義信奉者でした。1937(昭和12)年、吉祥寺に「前進座住宅」を建設し、「創造(稽古)と生活(住居と食糧自給)を統合した理想の集団生活」を始めたのも、その原始的共産主義の実現を目指したものだったのでしょう。長一郎さんのお宅はその場所とはちょっと離れていますが、吉祥寺にご縁があるのはお父様のとき以来のようです。ちなみに長一郎さんの本名は「統一」、弟の次郎さんの本名は「労作」と、これまたイデオロギーを感じさせるお名前ですね。

前進座の創設は1931(昭和6)年のことです。当時は世界大恐慌の影響で日本もどん底の景気状態。いま「百年に一度の不況」なんて言われますが、いえいえどうして、当時のほうがよほど悲惨だったと思います。企業の倒産や首切り、未曾有の就職難や給料の削減・遅配。労働争議が相次ぎ、地方では娘の身売りといった悲惨な出来事が相次いでいました。そうした世相にもかかわらず、当時の日本は一握りの財閥が経済を牛耳り、大地主が土地を独占する状態でした。有為の若人が「なんとかしなければ」と思ったのも当然でしょう。

伝統を誇る日本演劇界でも、同じような状況が見られました。人員削減や給料の減額などの経済的な問題もさることながら、伝統社会ならではの血統的身分差別が露骨であり、若手の不満は高まりました。また、古い歌舞伎劇だけでなく、新作も演じたい俳優たちの熱意も合わさり、1931年の5月22日に前進座は創立されたのです。創立総会では
「本劇団はその収入によって座員の生活を保証しつつ、広汎な民衆の進歩的要求に適合する演劇の創造に努力する」
「総会を最高決議機関として全座員によって構成する」
といった、旧来の演劇界の常識を覆す、民主的な方針がかかげられました。

その後、前進座は波瀾万丈の歩みを見せます。日本という国そのものが「激動の昭和」と呼ばれる時代を迎えていましたから、その荒波にもろにぶつかった、と言えるでしょう。戦時中は愛国美談もの、軍国調の作品も演じられましたが、その基本理念である「人間性を尊ぶ」を基調とした精神は変わらず、他の画一的な軍国劇に飽き足らない観客からは好評を得て、興行的にはかえって成功していたようです。

戦後、前進座は戦時中にもまさる混乱を見せました。それは共産主義というものの複雑性もからんでいます。河原崎長十郎さんは、極端とも言える原始的な共産主義を信奉し、そうした方に見られがちな独善的傾向を強めてしまったようです。また当時の中国共産党に思い入れが強く、毛沢東主義と対立していた日本共産党と衝突するなど、政治的思想的に行き詰まり、前進座もその混乱に巻き込まれてしまう事態となってしまいました。

前進座設立の思想は「民主的・進歩的」な演劇の創造でした。それが独善・独裁的傾向を強める指導者原理と対立するのは当然です。すったもんだの騒動の挙げ句、1968(昭和43)年、長十郎さんは前進座を除名されることになってしまいました。私が前進座の代表的俳優として認知していたのは、河原崎長十郎さんではなく、中村梅之助さんでした。子どもの頃に『遠山の金さん』『伝七捕物帖』などでおなじみでしたからね。いまでも「金さん」といえば梅之助さんのイメージです、私にとっては。「水戸黄門」は誰が何と言っても東野英二郎さんです(笑)。

現在、前進座は「伝統演目の批判的継承、創作劇の創造」をモットーに、古典歌舞伎は勿論、現代劇や児童劇など、さまざまな演劇のレパートリーを見せてくれています。その自由闊達、健康的な革新思想に基づく演劇は、左派の人だけでなく、保守的な方々を含めた、実に多くのファンを持っています。旧来の歌舞伎界との関係も良好です。その意味ではまさに「中央線的」な一種の「カオス」であると言えるかも知れませんね。前進座が吉祥寺を根拠地としたのは、まさに正解であったように思います。……というよりも、前進座の存在こそ、中央線文化を築き上げたひとつの柱、とさえ言えるかも知れません。

中央線の車窓に見える前進座劇場は、茶色の大きな建物です。吉祥寺からは、南口末広通りをまっすぐ進み、井の頭通りに突き当たった所。歩いて12,3分ですね。500人収容の大きな劇場は、レンガ壁の美しい、それは立派なもの。竣工から今年で27年だそうです。貸し会場としても使われており、前進座公演以外のさまざまな公演・イベントも開催されています。吉祥寺、いや中央線沿線のランドマークの一つ、と言えることは間違いないでしょう。





 変わる吉祥寺
     <2009/11/26>

 来年(2010年)の3月14日に吉祥寺の伊勢丹が撤退した後の跡地利用。そもそもあの場所は「東京女子体育短期大学」のキャンパスがあった場所でした。1961(昭和36)年に東女体大が国立に移転し、その跡地に武蔵野市が「F&Fビル」を建設、そこに伊勢丹がテナントとして入ったという経緯があります。ですから大家さんは武蔵野市(武蔵野市土地開発公社)です。
 このたび、跡地利用の概要が公表されました。それによりますと再開発主体は、三菱商事都市開発。どういう展開を見せてくれるのか、今から楽しみです。想像どおり「H&M(ヘネス・アンド・モーリッツ)」も入るようです。しかも1階2階。今のご時世、やはりファッションビルみたいになるのでしょうかね。
※2010年10月追記
結局、H&Mは伊勢丹跡の複合商業施設「コピス吉祥寺」への入居を辞退しました。吉祥寺進出自体は別の計画があるとかないとか。

 ところで、H&Mというと、スウェーデンのファストファッション(カジュアル衣料)会社。いま注目の大型家具店、イケア(IKEA)もスウェーデン。北欧のデザインは洗練されていて、オジサンでも「いいな」と思います。機能性も優れていますし、多数の支持を得ているのも納得です。

跡地利用には、高島屋、ドンキホーテ、ビックカメラなどなど、50社以上から問い合わせがあったそうです。さすが吉祥寺。テナント探しに苦労しませんねぇ。どこか1社に任せるのは簡単と言えば簡単なのですが、その1社に抜けられては、また今回と同じようなドタバタになってしまいます。そこで、公社と市は、跡地利用の方針である「集客力のある都市型商業施設」に鑑みて、デベロッパーに複数の入居テナントを提案させる、という方式を選択したわけですね。こういう再開発のプロフェッショナルに任せることは、「餅は餅屋」で良いのかも知れません。でもそれでは「武蔵野市土地開発公社」の存在意義が激減するような気がしないでもありませんが……。

そうそう。吉祥寺駅の高架下に長く長く営業してきたショッピングモール「ロンロン」が改修工事に入ります。完成時には「アトレ」へ名称変更。ロンロンというのは、高架下に「長く長く」つまり「ロングロング」な商店街、ということからの命名でした。開業は古く1969(昭和44)年12月。地上2階地下1階、店舗数238店、延べ床面積約32,200uという巨大なショッピングモールです。株式会社吉祥寺ロンロンが経営していましたが、駅ビル再編に伴って、2007年4月にJR東日本と合併。駅の改良工事と併せてリニューアルとなりました。
 来年4月に2階フロアをオープン、秋に1階と地下1階がリニューアルオープンするそうです。今までよりも、若者向けの色合いが強くなるそうですが、はたしてどうなるのでしょうね。
伊勢丹跡地もそうですが、再開発というと「若者向け」のリニューアルが多いようです。でも、これってどうなんでしょう。少子高齢化の時代、若者向け商売の行き先は不透明のように思えるのですが…。しかし高齢者は財布の紐が堅いので、どうしてもこうなるんでしょうけれども。商売というものは難しいですね。

駅舎改造工事も着々と進んでいます。駅ナカのベッカーズやニューデイズも閉鎖され、臨時通路になったり、「工事現場」の雰囲気が高まって参りました。しばらくは通勤客にとっては不便な状況になると思いますが、これもまた「産みの苦しみ」と思って、完成時の素晴らしさを夢見て我慢することにいたしましょうか。

吉祥寺はどんどん変わっていきます。先日、高架下の新宿寄り300mくらいのところに、なんともまぁお洒落なカフェがオープンしました。原宿や表参道にあるような素敵なお店で、名前は漫画カフェ「CAFE ZENON(カフェ ゼノン)」。工事中から「どんなお店になるのかなぁ」と興味津々だったのですが、なんとまぁ漫画カフェ。
けれども、漫画カフェというのは、世間一般のイメージの「漫画喫茶」とは100%異なる業態なのです。吉祥寺は漫画家が多く住んでいます。五日市街道沿い(松井外科となり)の居酒屋「闇太郎」は漫画家のたまり場として有名。そこで「カフェの形をした空間の漫画雑誌」というコンセプトのカフェを目指して開店となったようです。なんだか難しすぎてオジサンには理解できない世界。

開店時の花輪の名札は、有名芸能人あり漫画家あり大手出版社ありで、「なんだこりゃぁ」状態でしたが、このカフェの経営母体が、著作権管理やファンド型アニメ制作などが本業の「ノース・スターズ・ピクチャーズ」と聞いて納得。なるほどね〜。

ところで店名の「ZENON」ですが、通りがかりのおばさま達は「ゼンオンって何?」などと語らっておりました。ゼンオンでなくゼノン。由来は何と「観世音菩薩」の「世音」、つまり「広く世の声を聞く」という意味なんだそうですよ。ただもんじゃないですね。ただならぬ雰囲気です。
この場所は駅からちょっと歩きますし、ロケーション的にどうなのかなぁと思ったのですが、知り合いの飲食スタッフに聞いたところ、
「ヨドバシ裏は以前の風俗街から若者向けのお店の街に変わりつつあるので、その延長と考えれば良いのではないか」
とのことでした。確かにヨドバシ裏は、むかしの「近鉄裏」とはぜんぜんイメージが変わりつつあるようですからね。

さてさてこれからの吉祥寺。どういう変貌を見せてくれますやら、楽しみです。