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現代女房装束の基礎知識


女房装束の順位

女房装束は次のような順位になっています。

名称 装束の内容(内側より) 髪型 特徴 男子相当
五衣唐衣裳 小袖、長袴、単、五衣、打衣、表着(うわぎ)、唐衣、裳 おすべらかし いわゆる十二単 束帯
五衣小袿長袴 小袖、長袴、単、五衣、打衣、表着、小袿 お中 衣冠同様常装として 衣冠
小袿長袴 小袖、長袴、単、小袿 お中 五衣がないので襲色目なし 直衣
袿袴 小袖、単(略す場合あり)、切袴、袿 ときさげ 明治以降は正装として用いられる 狩衣

五衣唐衣裳姿 (いつつぎぬからぎぬも・いわゆる十二単)

現在ではこの装束を着用する機会は非常に限られています。皇族妃、高級女官が重儀(即位礼当日賢所の儀・紫宸殿の儀・大嘗祭・御結婚式)のみに用いられると言って過言ではないでしょう。

装束の織紋様(皇族専用共通)

唐衣
紫の二重織物
亀甲地文に雲鶴の丸
表着
紅の二重織物
入子菱地文に八葉菊
五衣
萌黄の固地綾
松立涌

三重襷地文に
桐竹尾長鳥の地摺絵

装束の「萌黄」はグリーンから濃いグリーンまでも含みます。

平成御大礼正殿の儀・皇后の御装束

御唐衣 御表着 御打衣 御五衣 御単
白小葵地
紫向松喰鶴丸
裏紫小菱
経白緯萌黄三重襷地
濃萌黄白樺の丸
裏萌葱平絹
紫無文綾
裏紫平絹
紅匂松立涌
裏同色平絹
紅幸菱

皇后以外の女子皇族共通装束

唐衣 表着 打衣 五衣
未婚者 紫亀甲地白雲鶴丸
裏紫小菱
紅入子菱地白かに八葉菊
裏黄平絹
濃色無文綾
裏濃色平絹
萌黄松立涌
裏萌黄匂平絹
濃色幸菱
高齢以前 紫亀甲地白雲鶴丸
裏薄紫小菱
紅入子菱地白かに八葉菊
裏黄平絹
紫無文綾
裏紫平絹
萌黄松立涌
裏萌黄匂平絹
紅幸菱
高齢者 深紫亀甲地白雲鶴丸
裏紫小菱
二藍入子菱地白かに八葉菊
裏青色平絹
同上 白松立涌
裏蘇芳平絹
紅幸菱

高齢者の切り替えは旧来は40歳を境にしていましたが、社会の高齢化に伴い弾力的に運用されています。
平成の御大礼では秩父宮妃・高松宮妃・三笠宮妃が高齢者の装束でした。
高齢者の表着の二藍は藍色に近いブルーです。
未婚者は小袖、単、打衣と袴が濃色(こきいろ・紫に近い濃いえんじ色)となります。
濃色の袴は未婚から第一子出産まで用いることが出来るとされます。

皇族妃殿下御成婚時の装束 (年代順・敬称略)

唐衣 表着 打衣 五衣 御成婚日
昭憲皇太后 紅亀甲地白藤丸
裏黄色横繁菱
麹塵入菱地紅向鳳凰
裏紫平絹
- 白雲立涌
裏紅平絹
赤幸菱 明治元.12.28
(新暦2.9)
貞明皇后 経紫緯赤生亀甲地
白五か 裏縹生小菱
経青緯黄生菱地
紅鳳凰鸞絵 
裏青生羽二重
紅生織
引倍木
(裏なし
薄蘇芳藤立涌
濃蘇芳生羽二重
青色幸菱 明治33.5.10
伏見宮博義王妃 赤亀甲地鸚鵡丸 松重松葉唐草地
紅下り藤
濃色
無地綾
紅梅重藤立涌 濃色幸菱 大正8.4
香淳皇后 紅亀甲地白か葉付菊
裏薄紅小菱
紫雲立涌地白松喰鶴
裏薄紫平絹 
濃色無地綾
裏濃色平絹
松重雲立涌
裏同色平絹
濃色幸菱 大正13.1.26
久邇宮朝融王妃 赤亀甲地白裏菊 松重雲立涌地紅裏菊 濃色
無地綾
菊重雲立涌 濃色幸菱 大正14.1
秩父宮妃 萌黄亀甲地
白かに三ツ葵
萌黄竹襷地
薄紅松の丸
濃色
無地生綾
紅梅雲立涌 濃色幸菱 昭和3.9
高松宮妃 紅梅亀甲地
白丸に三ツ葵
萌黄入子菱地
薄紅牡丹の丸
- 白雲立涌裏紅平絹 濃色幸菱 昭和5.1
東久邇成子
(元照宮内親王)
萌黄亀甲地
桃色かに梅
裏紫小菱
蘇芳菊唐草地白菱菊
裏紫平絹
濃色固地綾
裏濃色平絹
白葉付菊立涌
裏萌黄平絹
濃色幸菱 昭和18.10
皇后 紫亀甲地
白向雲鶴丸文
裏紫小菱繁文
紅入子菱地
白かに八葉菊
裏黄平絹
紫無地綾
裏紫平絹
萌黄松立涌
裏同色匂染平絹
(上より順次淡色)
濃色幸菱 昭和34.4.10
秋篠宮妃 経白緯萌黄亀甲地
薄紅かに丁子
裏萌黄小菱
経紅緯黄松菱地
萌黄尾長鳥丸生絹
裏青生平絹
濃色
引倍木
(裏なし)
白撫子重藻勝見立涌
裏薄青・青・紅梅・
紅・蘇芳平絹
濃色幸菱 平成2.6.29
(夏服時季)
皇太子妃 青色亀甲地
白かに支子
裏青色小菱
黄若松菱地
紅南天喰尾長鳥丸
裏黄生平絹
濃色
引倍木
(裏なし)
花橘重忍冬唐草立涌
(薄青・青・白・山吹・
濃山吹) 裏同色
濃色幸菱 平成5.6.9
(夏服時季)

着物の裏地をはみ出した部分を「おめり」と言います。
表地から5mm程度はみ出させることで、重ねの色目を楽しみます。平安時代よりも布地の厚みが増して透け具合が
悪くなったため、重ね色目を楽しむために、この技法が生まれたのでしょう。おめりがあるので、五衣で10枚分の重ねが展開されます。
打衣の「引倍木(ひへぎ)」は、引き剥ぐ、という言葉が語源で、裏地がない「ひとえ仕立て」ということです。

大正御大礼賢所大前の儀装束

明治維新混乱期の明治御大礼、関東大震災の影響と世情不安定の昭和御大礼との間にある大正の御大礼は、近代宮中儀式の最盛儀とも言えるでしょう。装束の板引き加工はこのときまでです。昭和御大礼では、華美にわたるとされてこの加工はなくなりました。

皇后(貞明皇后)の御装束

御唐衣 御表着 御打衣 御五衣 御単
白小葵地
向鳳凰赤と萌黄の二色
裏蘇芳小菱板引
萌黄亀甲地白の藤丸
裏紫平絹
紫綾竪菱張
裏深紫平絹
紅雲立涌
裏二藍平絹
紅幸菱

皇族の装束

上記の共通装束とほぼ同じです。相違点は、唐衣の裏に板引きをしている点と、表着の上文の「かに八葉菊」が黄色であることです。

高等女官の装束

唐衣 表着 打衣 五衣
勅任官 蘇芳浮織亀甲地向蝶丸
裏蘇芳平絹板引
萌黄入子菱地白松の丸
裏萌黄平絹
紅平絹
裏紅平絹
薄紅固織綾八重梅
裏薄紅平絹
黄幸菱
奏任官 萌黄浮織入子菱地海松の丸
裏萌黄平絹板引
紅綾松唐草
裏薄紅平絹
紅平絹
裏紅平絹
葡萄綾唐花
裏葡萄平絹
紅幸菱
女官の唐衣は二重織ではないので、
上文が別の色ということはありません。
奏任官

舞姫装束の特徴
五節舞の舞姫の装束は基本的に「五衣・唐衣・裳」ですが、髪飾りに白い「日陰糸」を長く下げ、また活動の便を図って、裳の小腰(掛け帯)を結ぶに際して、唐衣の前身の上から結び止めるのが特徴です。

五衣小袿長袴 (いつつぎぬこうちきながばかま)

即位の大礼に皇族が着用するものです。大礼の期日報告の儀・即位礼後一日賢所御神楽の儀に着用されました。
平安時代の「小袿」はその名の通り通常の袿より丈が短く作られ、唐衣の代わりに一番上に着たものでした。
 しかし五衣小袿姿が公服化しますと、次第に長くなり表着と変わりなくなってしまいます。表着との外見上の違いは表地と「おめり」(裏地)の間には「中陪(なかべ)」と呼ばれる別の生地を入れて仕立てて襟・袖・裾回りを見ると3枚重ねのように見えて、重ね色目を楽しめることです。
 下の「袿袴(けいこ)」という装束ができますと、この袿にも中陪が付けられました。この袿袴の袿は「道中着姿」という外出用に裾をからげた姿としても着るため、便宜を図って短めに仕立てられます。そのため、「小袿」と「袿」は名称と実際のサイズとが逆転してしまいました。

袿袴 (けいこ)

明治に入り、宮中の正装は洋装となりましたが、また袿袴という制度も制定されました。これは近世までの小袿姿を簡略化したもので、大きな特徴は袴が長袴でなく切袴(紅精好)であることです。単は幸菱が定められています。手には伝統の檜扇を持ちますが、供奉などの際には歩行の便を図って裾をたくし上げ、洋式の靴(袴と同じ緋の絹布製)を用いています。この姿を「道中着姿」と呼びます。袴の腰に上に太い帯を結んでおいて、たくしあげた単と袿を上側から刺し込み、平帯で上からさらに引き上げた装束を結び留めます。

 皇后は行啓・拝謁・歌会・観桜会などに用いられ、また高級女官や高等官夫人の礼服として用いられました(大正12年4月の観桜会から、留袖でもよいこととされましたが)。
 臣下の袿袴は明治7年、宮中参内の装束として定められました。明治13年と17年に規則が部分的に改定され、さらに大正4年にも改正されて構成や織文、色彩などが着用の用途と身分で定められました。明治時代には礼服・通常礼服・通常服の3種がありましたが、大正4年の改正で通常礼服を通常服として、2種になりました。

 大正4年の改正では宮中席次第3階(高等官二等、男爵、従四位、勲三等)以上の者および同夫人には礼服・通常服の区別があり、礼服を着用するのは新年朝賀・即位大礼・皇后誕生日などです。第4階以下最低の第10階(高等官九等、従八位、勲八等)までの者および同夫人の袿袴は通常服のみです。礼服は袿の下に単を着て手には檜扇を持ちます。通常服は単を略し、扇は「ぼんぼり」を用いました。

 明治19年に洋装礼服(大礼服:マント・ド・クール、中礼服:ローブ・デコルテ、通常礼服:ローブ・モンタント)が定められましたが、当時の日本婦人はやはり伝統の装束である袿袴を愛用したようです。当時の国際社交場「鹿鳴館」においても各国外交官は日本婦人には洋装よりも袿袴の方が美しいと絶賛しています。

 現在宮中では、女子皇族は大礼の際、宮中三殿に期日報告の儀等に用いています。このときは礼服形式ですがぼんぼり扇を持つようです。また女官が神事に際して皇族に供奉する際などにも用いられています。 

 袿袴は道中着姿・洋靴という画期的な利用法がありますので、今日的な応用(儀礼・式典での着用)に最も適していると言えるでしょう。

宮中ニ参入スル者ノ袿袴ノ制  (大正4年皇室令第8号)
種別 礼 服 通常服
 地質ハ唐織トシ夏ハ紗二重織トス
 文様ハ鳳凰、小葵、二藍ニ三重襷、深紫ニ雲鶴ヲ除クノ外
 適宜トス 色目ハ黄櫨染、黄丹、忌色(橡色、鈍色、柑子色、
 萱草色)ヲ除クノ外適宜トス
 同左 但シ地質ヲ緞子ノ類トシ夏ハ紗トス
 地質ハ固地綾織トシ文様ハ千剣菱トシ色目ハ黄櫨染、黄丹、
 忌色ヲ除クノ外適宜トス
 ナシ
 地質ハ白練絹トシ夏ハ晒布トス  地質ハ白羽二重トシ夏ハ晒布トス
 地質ハ精好トシ色目ハ緋トシ切袴トス  同左 但シ地質ハ適宜トス
 垂髻(トキサゲ)但シ前髪を取ル仕様ハ適宜トス  同左
 檜扇  「ボンボリ」
 袴ト同色ノ絹ヲ用フ  同左 但シ地質ハ適宜トス

・切袴は神社の巫女さんのような差袴ではなく、右サイドで大きく結ぶ形式で、折り目もありません(ねじまち仕立て)。
・袿の表地と「おめり」(裏地)の間には「中陪(なかべ)」と呼ばれる別の生地を入れて仕立ててありますが、これは襲ね色目的な色彩の美を目的としたもので、本来小袿に用いられたものですが、袿袴の袿にも用いられるようになりました。
・靴は完全な洋式です。現在は大塚製靴(株)が製作しています。実物レプリカは「クツのオーツカ資料館」(横浜市港北区日吉本町)で見ることが出来ます。
・未婚の女子は袴と小袖、単そして靴に濃色(紫に近い深えんじ色)を用いています。

袿袴道中着姿の現代的応用

装束勉強会に用いている袿袴を持ちいた例。
着装者の身長に合わせて誂えた装束ではないので
前のお端折が、やや大きくなってしまいますが、
無理なく美しく着装できます。

背部は下からのお端折だけで、上からの込み入れは
しません。そのため後ろ姿は和服の羽織のような印象
で、とても上品です。

これならば通常の和服以上の活動性が確保できます。
礼装には最適です。
また紐を解けば瞬時に通常の袿袴姿になることが
できます。

・檜扇は39橋、寸法は長さ1尺3寸、橋の上幅1寸3分です。梅と竹の極彩色文様が描かれ、要(かなめ)には蝶鳥金具、親骨に上部を蜷(にな)結びにした6色(青・赤・淡紅・紫・黄・白)の飾り糸と、飾花(山科流は松梅、高倉流は松梅橘)がつけられています。この糸飾りは室町以降からと言われています。
 現在では実際に扇を開く機会はほとんどなく、畳んで糸をくるくると巻き付けた状態で右手に持ちます。巻くときに「左右撚り」にするために五行の色(本来は青赤白黒黄ですが、黒の代わりに紫)に桃色を加えて偶数の6色としたとも言われていますが、5色(10本)でも左右撚りにできますから謎です。

<明治時代も袿袴の美しさは耳目をそばだたせました>
伊藤博文、延遼館に貴顕淑女を招き舞踏会を開催 (明治19年03月20日東京日日新聞)
「(前略)
東伏見宮、北白川の宮には武官の正服を召させたまい、御息所には唐織の袿に緋の切袴を召させたまいておわしける。
(中略)
かくて中外文武の礼服の綺羅めきたるに、我が国の人々今夜を晴と外国の勲章をも胸に輝かし、外国の人々はまた日本の勲章をもかくぞと懸け渡したるは、人々の勲功の中外に知られたるを表して、互いにいよいよ敬愛の念を厚くし、御息所、御廉中、北の方及び女房たちの或いは袿袴の気高なるあり、或いは今様の洋服の麗わしきありて、燈の光りに照り渡りて色白く髪長く、容貌のいとど美麗なるに、その色艶をましたるを見渡らすると、かの常に日本の婦人は西洋婦人に劣れりなどと一言の下墨ある輩に、あわれこの北の方を見せていかがぞと詰らまほしく思いけるもおかしかりき」

服喪時の袿袴

これには喪儀対象の地位や着装者との関係、期間に応じた細かい規則があるため、ここでは戦前の宮中儀式での例を示します。

高等官 判任官
第一期 黒橡 麻 柑子色 麻 鼠色 麻 萱草色 麻
第二期 同上 同上 同上 同上
第三期 鈍色 生絹 萱草色 生絹 同上 同上
一年の喪 百五十日の喪 九十日の喪 三十日の喪 七日以下の喪
第一期 50日間 30日間 20日間 10日間 分けない
第二期 50日間 30日間 70日間 20日間
第三期 残り 90日間 - -

理髪

平安時代以来、日本の女性の髪型は垂髪が基本でした。宮中でも一部の例外を除いて垂髪でしたが、江戸時代末期、京都の町で流行していた「灯籠鬢(とうろうびん)」という髪型にヒントを得て取り入れられたのが、いわゆる「おすべらかし(大垂髪)」です。皇族および女官(高等官)が用いました。

 この髪型は仙花紙という厚紙を黒く塗った「つとうら」という型紙を中に入れて、大きく左右に「鬢(びん)」を張り出します。後ろには7尺もの長さの「長かもじ」をつけ、前髪にも「丸かもじ」をつけ、さらに髪上げ具として「釵子(さいし)」という金属板を紫の紐と3本の簪(かんざし)で止め、額櫛をつけるという、大仕掛けなものです。そこで簡略版も考案されました。簡略版は「つとうら」も小さめで、前髪は「丸かもじ」を使わない自前の髪、髪上げ具も使いません。正式版を「お大」、簡略版を「お中」と呼びます。

 原則として「お大」は五衣・唐衣・裳の正装に用い、「お中」は五衣・小袿・長袴に用いましたが、明治以降は正装でも「お中」で代用することが多かったようです。この場合、髪上げ具を用いますので、「丸かもじ」を置くのにじゃまとなる自前の前髪はとりません。

釵子(さいし)
本来はU字型の金具の名前でしたが、平額のことを
今は釵子と呼び、さらに額櫛まで一式含めて釵子と総称する
こともあるようです。
 神事では平額に心葉(こころば)という造花を立て、左右に
白絹を蜷結びに編んだ日陰糸(ひかげのいと)を垂らします。
 髪上の具は五衣唐衣裳の正装の時のみ用います。
釆女装束でも髪上の具を用いますが、これは天皇の配膳にあたる際に
髪がじゃまにならないための髪上げという伝統があります。
左 : お大
中 : 丸かもじを乗せ…
右 : 釵子と額櫛を付ける
髪上げ具
釵子と額櫛
丸かもじ
お大は4か所結わえます
上から「絵元結」、紅の水引の「くれない」、
そして2本の白い和紙の「こびんさき」です。
絵元結は結び切り、他はすべて片鉤に結びます。
「絵元結」は28歳までは紅、それ以降は金のものを
用いる習わしです。

お中は5か所結わえます
上から白の「丈長(たけなが)」、「絵元結」、
3本の「こびんさき」です。
お中 左 : お中
右 : お大

「お中」でも大仰であるため、さらに簡略化されて宮中の雑務に当たる判任官の女官が用いた髪型が「おさえづと」、通称「おさえ」です。これはさらに「つとうら」も小さく、後頭部で髪をひっつめ「白丈長」で止め、その下2か所を黒元結で結びます。また、事務に当たる場合は垂髪をおだんごに束ねてかんざしで横一文字に止めることもしました。現在宮中の女官は儀式の際に「おさえ」(垂髪)を結います。
 「垂髻(ときさげ)」は袿袴に用いる明治生まれの髪型です。「つとうら」を入れずに、後ろでひっつめてお下げにしたものです。
 この他、16歳以下が結ったのが「わらわ」です。「つとうら」は入れますが、前髪もなくかもじも付けず、ただ髪を後ろで束ね、首の後ろで「くれない」で結んだだけのものです。

左 : 垂髻(ときさげ)
中・右 : おさえ
わらわ

垂髻(ときさげ)の結いかた
(1)髪をオールバックにし、前髪部分をまとめてその根元を黒髪結で結び切りに結びます。凶事の場合は前髪をとらない習わしです。
(2)その他の髪を束ねて根元を白元結でまず結び切りにして両端を残します。
(3)(2)で束ねた髪の上に(1)の前髪束を乗せ、余っている(2)の白元結を回して結び切ります。
(4)白元結の下、3寸(約10p)のところで、黒元結で結び切りに結びます。
(5)(3)で髪全体を束ねた白元結の上に、飾りの白丈長(和紙)を二度回して結びます。
丈長の結びは、通常は諸鉤、凶事には片鉤に結びます。これは他の装束とは違う方法なので注意が必要です。


現在の女子神職の服制

 女子神職(神社本庁が包括する神社神職)は袿袴に近い装束をもって正装、水干を常装としていました。しかし男子神職同様の動作を要求される女子神職には袿袴ではあまりにも活動が不便なため、特別な装束が昭和62年に制定されました。これは袿を最初から道中着の丈に切りつめたような独特なもので、表衣と唐衣を着用したのが最上級の正装、唐衣を略したのが常装です。髪型はときさげで、額当(ぬかあて)という鉢巻状ものや釵子(さいし)などの飾りを額につけます。また袴はねじまちながら色彩は男子神職と同じものを用います。

神社本庁 昭和62年制定の女子神職装束

男子と同じく正装(正服)・礼装(斎服)・常装(常服・浄衣)がある。

正装は釵子、日陰葛、唐衣、表着、単、ねじまち袴、白衣、紅帖紙、檜扇
礼装は正装と同じ物具で色彩がすべて白
常装(常服)は額当、表着、単、ねじまち袴、白衣、ぼんぼり扇

浅沓は特に色の指定がないため、紅色を使う神職さんが多いようです。


捻襠仕立て
の指袴
常装 正装
正 装 常 装
特級 一級 二級上 二級 三・四級 特級 一級 二級上 二級 三・四級
髪飾 釵子・心葉・日陰糸白 黒紗額当
唐衣 二重織物 色目適宜(禁色・忌色除く)
夏は紗の類 文縫取
有文固地綾
夏は文紗の類
なし
表着 綾地縫取 色目適宜
夏は練薄・縫取・顕文紗(裏つき)
有文綾 色目適宜
夏は練薄・顕文紗(裏つき)
三・四級は顕文紗のみ
綾・練薄・縫取・顕文紗・
平絹の類
綾・練薄・顕文紗・
平絹の類
綾・顕文紗・
平絹の類
萌黄又は紅綾 文幸菱 同左 ただし省略できる
切袴 白固織 
藤丸
紫固織
藤丸
紫固織
藤丸共緯
紫平絹 浅黄平絹 正装に同じ
檜扇十六橋 胡粉塗彩色絵  ボンボリ 十五橋
帖紙 紅鳥の子紙 なし
浅沓 沓敷白綾有文 浅沓 沓敷白平絹 正装に同じ
釵子・心葉・日陰糸 黒紗額当 ボンボリ

 こうしたことから、現在の女子神職のは、上記の袿袴とはまったく異なるものと考えた方が良いでしょう。ただし女子神職は、以前の規程の水干を着用されている例もまだまだあるようです。この場合、単を着ければ正服、着けなければ常服として扱われます。上頸で着用し、裾は着込めず覆水干とします。


子ども服

童女服としての装束は、現在では皇室の儀礼用、そして地鎮祭や竣工清祓のときに奉仕する童女用などです。

細長 (ほそなが)

 『枕草子』にも登場する細長は、平安時代から受け継がれている装束には違いありませんが、実は不明な点の多い謎の装束です。現在でも少なくとも2種類以上のパターンがあります。

(1)産着細長
水干のように襟を紐で止めるタイプの「上領(あげくび)」の着物です。水干の裾をとても長く仕立てた形で、後ろ身を長く引き、前身も左右に分けて後ろに長く引きます。記録では袖下1尺7寸、袖幅7寸と子ども服らしく小さな仕立てですが、身は幅6寸5分に対して長さ4尺5寸、すごく長い裾です。また襟を止める紐は蜷(にな)結いの飾り結びで身よりさらに長く引きました。色はすべて白が原則です。水干に似ていますが袖に括り紐は付けません。また首上の襟芯も入れません。
 乳児期から3〜4歳くらいまでの男女児服として着用されました。のち、出産祝いなどとして贈答されるようになりますと形式化して大きく仕立てられるようになりました。

(2)細長
子どもからある程度成人した若い女性までが着用したのが細長です。これの古式のものには諸説あって、一定しません。『満佐須計装束抄』には「例の衣の大首(袵のこと)なきなり」とだけ述べています。子ども服も産着細長と同様形式であったという説もあります。
 現在知られる細長は一般的には、袿のような着物で、袵(おくみ・前身につける打ち合わせ部分)がなく、前身に直接襟が付く羽織のような仕立てです。子どものサイズに合わせたものでしょう。それゆえに「細長」と呼ばれるようです。また、大きな特徴は腋が縫い合わされていないことです。このため、産着細長のように、前身の裾は左右に分けて後ろに長く引きました。全体に長く仕立てられているため、前後の裾を長く引くことになります。江戸時代の公家子女の細長が残っていますが、これは腋が縫われています。しかし実際上、これほど長い着物の腋を縫ってしまっては歩行が著しく困難。やはり縫わないのが正しいでしょう。
 紀宮様袴着の儀式では、脇を縫わない形式の紅の亀甲地薄紅松唐草細長(中陪つき)、濃色単、濃色長袴に濃色の小袖を着用されました。

汗衫 (かざみ)

童女の正装です。本来はその名の通り、汗対策の衣服であったようですが、かなり古くから晴れの衣装に昇格していました。
 一番上に着る「汗衫の袍」は、産着細長の狩衣版とでも言うのか、襟をとんぼで止めるタイプで、あとは細身の狩衣に似ていますが、袖に括り紐は付けません。長さは細長同様に長く、後ろ身はもちろん、前身も左右に分けて後ろに長く引きます。

童女神祇装束の汗衫
現在、地鎮祭に奉仕する童女服としての汗衫装束の構成は、白小袖、濃色大口袴、白の表袴、濃色単、二藍の下襲(後身2幅襟下6尺3寸)、二藍の半臂(はんぴ)、生平絹の表裏縹色汗衫袍(後身2幅1丈2尺8寸5分、前身タタミ目より8寸5分、袖丈2尺1寸2分、袖幅1尺2寸)、石帯、足には絲鞋(しかい)を履きます。また髪は下げみずら(総角)に左右耳の上で結い、赤い丈長(たけなが・細長い紙)で上向き片鉤、もう一度諸鉤に結んで端を上に上げます。

 古くは濃色の長袴の上に表袴をはくという特殊な着方をしたようです。また石帯のかわりに狩衣のような共身の当帯を使ったとの記録もあります。かなりさまざまな変遷を経た装束と言えるでしょう。

現代女子装束シミュレーター


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