装束と言いますと通常、衣冠束帯や狩衣といったものが想像できるかと存じます。当サイトではそうした装束の紹介とともに、その礼服としての「復権と普及」を意図しているのでございます。なぜそのような、一見時代錯誤な意図を持っているのかと問われましたならば、まず第一に「美しいから」とお答えいたしますが、決してそればかりではございませんのです。
「この国際化時代に何で装束の復権なのか」という当然の疑問が出て参りましょう。確かに洋服と比べまして運動性機能性もよろしくなく、また着用しているのが神社の神職さんだけという現状では、そうした疑問が生まれてくるのも無理はございません。私も以前はそう考えておりました。ところがその考えを改めさせられる出来事があったのでございます。
私の家には縁あって装束がいくらかございましたが、それはまさに骨董品であって、実用に使うものではないと頭から考えておりました。そんな折り、勤め先の関係で海外留学生が多く集まる国際懇親会が開催されたのでございます。留学生たちは各国のきらびやかな礼装で参ると聞いておりましたので、私も半分いたずら心で「では私も装束を引っぱり出して着てみるか」と考え、当日着用に及び列席いたしました。懇親会は聞き及んでおりましたように各国の礼装にあふれ、実に華やいだ雰囲気でございました。やがて私の姿を見た留学生たちは皆一様に目を丸くして集まって参りました。
「素晴らしい」「初めて見ました」「これはどういう時に着るものですか?」
そして皆が口を揃えて申しますのは、
「こんな素晴らしい伝統民族衣装を持ちながら、どうして日本人は着ないのですか?」
ということでございました。私自身、目から鱗の落ちる思いがいたしました。
私以外の日本人は皆洋服でございました。そこには日本人である「形」がまったくございません。国際化社会というのは世界が均一になることでは決してないと存じます。各国各民族が独自の文化と伝統を持ち、それを相互に尊重し合うことこそが真の国際化であると私は痛感いたしました。そしてその、日本人としてのアイデンティティーを最も端的に示すものが服装であると考えたのでございます。
懇親会の最初「仮装行列かい?」と笑っておりました同僚たちも、留学生たちの真剣な眼差しと意見に、次第に見る目が変わってまいりました。そして宴の終わる頃には「今度国際会議があるので、その後の懇親会に着たいから貸してもらえないか」と言うようにまでなったのでございます。
それ以後、私は海外の方との集まりには決まって装束を着用するようにいたしました。そしてすべて好評裡に迎えられました。やがて私は結婚式参列などのさまざまな儀礼にも装束を着用するようになりました。最初は奇異に見られましても、話がはずむうちに「とても良いものですね」となるのが普通でございます。やはり日本人には日本人の美意識が脈々と受け継がれているのでございましょう。それを確信したとき、神事服ではなく礼服としての装束の復権をこそ私は訴えようと考えたのでございます。
日本人には日本人の誇りとアイデンティティーがございます。国際化社会の中でそれを見失ってはいけません。明治以降の急速な近代化、また戦後の価値観の転換などの中で、装束は単なる神事服になってしまっています。日本人は日本人としての誇りを忘れているようにさえ思えます。装束という「形」からそれを取り戻したい。それが私の希求するところなのでございます。装束の復権は、復古主義でも国粋主義でもない、真の国際化社会における日本人の証なのでございます。
さらに誤解を避けるために付け加えますと、私がこのサイトを開設しておりますのは「誰もが等しく、この素晴らしい伝統装束を楽しめること」を目的としております。歴史的な経緯を説明する必要から、古代以来の身分制度や位階などについても触れていますが、現代の世の中においては日本国憲法の精神に則り、あらゆる貴族、世襲的特権階級の存在を否定します。そうした古い因習から装束を解き放ち、誰もが気軽に触れることができるようになることを心から願っております。
証券会社と思うのでございますが、平安朝の装束を着て曲水の宴のごとく野外に厚畳を敷き、その上で宣伝口上を述べるというCMをテレビで拝見いたしました。男性は烏帽子直衣だったのでございますが、何かおかしい。よく見ると生地が狩衣に使う物なのでございます。もちろん有職紋で藍地に白の雲鶴丸紋、それ自体は何らおかしなものではございません。しかし何かおかしく感じるのでございます。狩衣かと思い目を凝らしたのでございますが、仕立ては直衣でございました。狩衣も直衣も「平常着」であることには変わりはないのでございますが、文様や色目の自由な狩衣に対して、直衣は一応、冬=白、夏=二藍、という決めごとがございます。文様もまた、冬=臥蝶丸、夏=三重襷、という定めがございます。CMの直衣はこれから逸脱した物だったのでございますね。
私は何もCMで時代考証がどうのとあら探しをするつもりは毛頭ございませんが、この「おかしい」という気持ちがどこから出て参るのかよく考えてみる機会になったのでございます。同じ「平常着」でありながらやはり狩衣と直衣は違うのでございます。言ってみるならば狩衣はジーンズにトレーナー感覚の「遊び着」、直衣は礼服ではないですが一般に着るスーツ(背広)、といった感じなのではございませんでしょうか。背広を作る生地に派手なチェック柄やペイズリー模様などを使いますと、これはもう「その筋」の方しかお召しになれない、すさまじい印象のものが出来上がりましょう。CMではその「ド派手背広」を見せられたために違和感があった、ということなのだろうと存じます。雛人形などでも奇をてらった現代風のものや金襴を使ったものよりも、「有職雛」と呼ばれるお人形は誠に優美で上品な印象を与えてくれるものでございます。
長年にわたって培われた有職故実は、「美意識」の面で完成を見ております。こと細かな部分はさておき、重大な部分でここのところを間違えると、とてもおかしなものになってしまうという、好例でございました。バラエティー番組で狩衣に冠を付けるというような衣装は、トレーナーにネクタイをするようなもので、とてもおかしなものでございます。
「本物」を知ることが大切なのは、何も「伝統の継承」であるとか「時代考証の再現」ばかりが目的ではございません。本物にはやはりそれなりの意味がございまして、本物に近いほど、例えば「運動性が良好」であるといったような機能的利便性もあるものなのでございます。ちょうどお茶のお点前がすべて意味ある行動の積み重ねであるように…。
このサイトは歴史考証を目指した正確なものとは申せませんし、明治以降の宮廷装束の解説を目的としたものでもありませんが、「本物」をできるだけご理解いただきたいと願っているのでございます。
「装束の実用・普及」ということを考えるとき、「有職故実との整合性」が問題になって参ります。「昔どおり」をモットーとします有職故実では、たとえば化繊の布とかミシン縫製とかを最も望ましくないものとするのも、また当然でございましょう。昔ながらの縫製技術には意味があり、たとえば緩く縫い上げて、すぐに切れるような糸を用いるのは、生地を傷めないことや、洗い張りの便宜を図ったものでございます。他にも今の視点では無駄と思われるようなことも、装束を調進したり着用するに際して、意外に大切な働きをしたりするものでございます。その伝統は受け継がれるべきであると私も思います。装束は多少の変化はあっても、1000年間ほぼ同じ形式で受け継がれてきた世界で唯一の服飾文化なのです。
ただ、装束の実用を考えますと、ただ単に旧来どおりにすれば良いとも思えません。装束の歴史も奈良平安から今日まで、さまざまに変化して参りました。「平安装束」と一口に申しましても、400年もの平安時代の、どの時期を指すのか、といった問題がございます。貴族文化が最も栄えた摂関時代は現在の装束とはかなり異なる「なえ装束」であったことでございましょう。これを今に再現することは難しく、また必ずしも皆様に「平安装束」として認知いただけないものになってしまうかもしれません。今日の装束「こわ装束」は院政時代以降のものでございますから。
平安初期の唐風装束から国風になったとき、「今の若い者は伝統を守らない」というお叱りがきっとあったと私は思います。なえ装束からこわ装束に変わるときもしかり、襟が高いものから低いものになったときも、またしかり。文官が冠に緒を掛けて頭にとめるようになったときも、非難があったと思うのでございます。しかし習俗の変化に伴って文物が変化するのは仕方のないことでございます。伝統を知り、伝統を踏まえつつ時代にあったものを…という視点もあってしかるべきなのではないでしょうか。
化繊は部分的ならば洗うことが出来ます(丸洗いはできませんが)。実用に用いるには化繊の方が便利であることは間違いございません。平安時代に化繊がございましたなら、きっと公卿たちは化繊を使っていたに違いないと私は思うのでございます。ですから私は、伝統を重んじ、昔通りの方法を守ることと共に、新しい装束のありかたも模索して良いのではないかと考えております。「化繊など使うことは装束に対する冒涜である」とは私は考えておらないのでございます。このあたり、伝統重視の皆様方と考えを相違するところかと存じますが、私もすべてを化繊にすべきと申し上げているのではなく、旧来の伝統を固く守ることと、時代の変化に対応していくこと、その両方を大事にしなくてはならないのではないかと考えているのでございます。どちらが上だ下だというような比較はナンセンスなものと考えております。正絹にも化繊にも、それぞれ長短がございます。これらをもって相対的な立場の上下を云々することなど、浅ましい限りでありましょう。どうぞ誤解なきようにお願い申し上げます。
ともあれ装束は実に優美で華麗、単純に言って美しいものでございます。普通の着物と比べて高価なものでもございません。どうぞ大勢の方がこの素晴らしい装束の世界にお気づきになって、21世紀の新たな時代に、多様化した文化の一つとして認知していただけるように、そして普及のお仲間に加わられますように切に希望いたします。