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有職文様素材集3(公家家紋)

伝統を受け継ぐ公家の家紋には独特の美が


近衛家
(近衛牡丹)
九条家
(九条藤)
二条家
(二条藤)
久我家
(五ツ龍胆車)
三条家
(唐菱花)
西園寺家
(左三ツ巴)
徳大寺家
(木瓜花菱浮線綾)

今出川家
(三ツ楓)

花山院家
(杜若菱)
広幡家
(十六葉裏菊)
広幡家
(十六葉裏菊)
広幡家
(十六葉裏菊)
正親町三条家
(正親町連翹)
三条西家
(八ツ丁字車)
中院家
(六ツ龍胆車)
中御門家
(抱キ柏)
綾小路家
(笹龍胆)
正親町家
(三ツ藤巴)
日野家
(鶴ノ丸)
広橋家
(対鶴ノ丸)
高台寺文様
(菊花紋と五七桐)
高台寺文様
(菊花紋と五七桐)
西洞院家
(揚羽蝶)
勧修寺家
(竹丸に三羽雀)
旧伏見宮家 旧閑院宮家 旧有栖川宮家 旧久邇宮家
旧東伏見宮家 旧北白川宮家 旧竹田宮家 宮中諸儀礼紋
(木瓜)

解説

公家について
公家は平安時代に固定化が始まり、藤原北家を中心に、源氏(清和・宇多・村上・花山・正親町の各天皇を始祖とする家)、平氏、藤原南家、菅原、清原、卜部、安倍、大江、丹波などの一族が各家を確立し、分家を繰り返して多くの家が成立していきました。公家が政治の実権を失った頃から、家々の家格や家業(和歌や楽器、香道や書道、衣紋道、料理など、各家それぞれの専門的な得意芸で、家元的な立場に立つ)が定まって来ました。

家格は江戸時代末までに次のようになりました。家の数は転変があるため幕末の数を基準としています。

摂  家
近衛・九條・二條・一條・鷹司の5家 (摂政・関白になることができました)
清華家
三條・今出川・大炊御門・花山院・徳大寺・西園寺・久我・醍醐・広幡の9家 
(太政大臣・左大臣・右大臣・近衛大将になることができましたが摂関にはなれませんでした)
大臣家
中院・正親町三條(明治以降に嵯峨)・三條西の3家 
(大臣になることができましたが、近衛大将を兼ねることができないとされました)
羽林家
岩倉・四辻・正親町・姉小路・中御門・山科・冷泉・藪・綾小路・中山・飛鳥井・白川・四條・八條など66家
(近衛中将・少将を兼ねて、最高は大納言・参議にまでなることができました)
名  家
日野・広橋・烏丸・勧修寺、梅小路、交野、勘解由小路など28家
(羽林家の下、諸大夫の上の立場で、太政官の弁官や蔵人を兼ね、功績があれば大納言にまでなることができるとされました)
半 家
     西洞院、土御門、沢、五辻、錦小路、五條、富小路、錦織など26家
(羽林家でも名家でもない家で、天皇秘書官トップを三代続けた功績で公家となった家や、特別な家柄血統の非藤原氏など)

家業としては代表的なところでは、和歌の冷泉、笛の三条、琵琶の西園寺、書道の大炊御門、料理と相撲の四条、衣紋道(着付け)の高倉・山科、香道の三条西、蹴鞠の飛鳥井などがあります。それぞれ家元的な立場で弟子筋を指導していきました。また家業以外でも神職の統括としての吉田家、座頭(盲人)統括の久我家など、特殊な権益も存在していました。

公家の家紋
 公家たちは皆、牛車に乗って参内したので他家の牛車との識別の必要を生じました。そこで各家は家ごとにゆかりのある文様を描いて目印としました。これが公家の家紋の始まりと言われています。車紋から家紋に直接つながったとされるものに、西園寺家の巴紋、徳大寺家の御簾裳額(木瓜)、近衛家の牡丹、花山院家の杜若、日野家の鶴丸などがあります。

 また家紋という物が確立されてきますと、車紋を定めていなかった家々もなにがしかの家紋を設定し始めましたが、その場合は家の成立にかかわる紋が多いようです。藤原氏直系を自認する家柄は「藤」にかかわる紋が多いですし、また久我(こが)家など源氏は「龍胆(りんどう)」にかかわる紋が多いようです。皇室から分かれた広幡家などは菊にかかわる紋、平氏の一族である西洞院家などは揚羽蝶、菅原氏一族の諸家は道真公が愛した梅を象って家紋にしたと言われます。さらに分家が生じたときには本家の家紋をそのまま用いたり、モチーフはそのままに一部加工したりしました(鶴丸紋の日野家から分かれた広橋家が向かい鶴丸紋など)。その他興味深いのは三条西家の八ツ丁字車紋で、これは同家の家業が香道であることから、香料である丁字(クローブ)をモチーフにしたのでしょう。

 ともあれ公家の家紋は、車の文様から由来したものと、出身に由来したもの、特別のゆかりで定められたものなどがあり、優美な図柄が多いことが特徴です。こうした公家の家紋は財政的に困窮していた江戸時代にお金で譲られたりしたために多くの家々に伝わることとなり、今では広く一般に用いられています。
 公家の家紋についてのエピソードはたくさんありますが、面白い事実を2例紹介しましょう。

竹に雀
 「雀のお宿」の昔話にあるように、竹藪に群集する雀は古くから人々の関心を集め、「繁栄」の象徴と考えていたようです。記録に残るところでは、平頼盛が車紋として用いたのが端緒とされて評判となりましたが、まもなく平氏は滅亡します。その人気の文様を使ったのが藤原北家の勧修寺(かじゅうじ)家でした。勧修寺家からは多くの分家が生まれました。甘露寺、万里小路、中御門(羽林家の同名の家とは別)、芝山、池尻、梅小路、岡崎、穂波、坊城などの公家が本流勧修寺家と同じ紋を用いました。この紋は皇室の菊・桐、摂関家の牡丹に次ぐ権威のある家紋として重んじられていたようです。

 また勧修寺家からは武家も生まれました。上杉家などが代表例です(始祖は上杉重房)。武家となった家では本家の公家に遠慮して雀を3羽から2羽に変化させています。上杉家は室町時代に関東管領として関東一円に勢力を伸ばしました。そのため、相模(神奈川県)を中心として東北方面まで、「竹に雀」の家紋は広く分布しました。また上杉家は伊達、最上氏にも家紋を伝えています。このうち伊達家の「仙台笹」は現代的な意匠が斬新ですが、これも発祥が優美を誇る公家の家紋だからと言えるでしょう。

源氏の笹りんどう
 「源氏の家紋は笹竜胆」と言う伝承は多いようです。広く知られているように、「源氏」というのは天皇の子供が臣下に下る際に与えられる姓です。ですからどの天皇の子供から家が始まったかによって、「嵯峨源氏」「宇多源氏」「村上源氏」「花山源氏」「正親町源氏」など多くの源氏が存在し、それぞれは現実的な意味での親族ではありません。ところが鎌倉幕府を開いた武家の「清和源氏」が有名であるため、「源氏=清和源氏」というイメージがあることも事実です。 

 公家の源氏のうち、最も権勢を誇ったのが村上源氏の「久我(こが)家」です。この家では装束などに竜胆の文様を多用しました。鎌倉時代の久我通方が著した『餝抄』には「当家では壮年まで指貫に竜胆襷(地紋のページ参照)を用いる」とあります。のちに確立された家紋も竜胆をモチーフとしたものを用いました。久我家から分かれた中院家、六条家なども同じく竜胆の紋です。また宇多源氏も竜胆を用いました。綾小路、庭田、五辻、大原、慈光寺などの家で、いわゆる「笹竜胆」が家紋です。なぜ公家の源氏が竜胆の紋を用いたかは不明です。一説には「天皇の装束の紋は桐竹であり、源氏は皇族の出身。竜胆の花は桐の花に似て、笹は竹に似るからだ」とも言われますが、どうも俗説のようです。だいいち、「笹竜胆」の「笹」は笹のように見えますがリンドウの葉であり、笹ではありません。

 さて、武家の清和源氏は、こうした公家の竜胆紋とはまったく無縁でした。しかし公家の源氏での竜胆紋、特に笹竜胆が有名になって来ると、これと混同して、清和源氏も古くから笹竜胆の紋を用いていたとする俗説が生まれました。そして江戸時代に清和源氏に属すると称する武家が、この俗説に従って笹竜胆を家紋として選び、さらに俗説を補強する形となって、今日「源氏=清和源氏=笹竜胆」というイメージができあがっているのです。

地下家(じげけ)について

上記の公家は「堂上(とうしょう)」とも呼ばれます。堂上は内裏清涼殿の殿上の間に昇殿できる五位以上の者を指しましたが、やがてその立場が固定化され、昇殿できる「家柄」のことを堂上家と呼ぶようになりました。一方、地下は本来は昇殿できない立場の者の総称でしたが、やがて朝廷で実務を執る官人の称に固定化されました。堂上と異なり、この家格に属する者はたとえ三位の高位に進んでも、一人前の「殿上人」としての処遇は得られない差別待遇をされていました。明治維新後、官務の壬生家と局務の押小路家は華族に列せられました。

官務
朝廷の実務を担当する太政官三局(少納言局・左弁官局・右弁官局)のうち、左右弁官局のトップである左大史のこと。平安中期以降、小槻氏がこの職を独占して太政官の庶務を掌握するようになり、官務と呼ばれるようになりました。
局務
太政官三局のうち、少納言局の外記のトップである大外記のこと。少納言局では詔勅・宣旨の作成などを担当していましたが、実際には大外記が実務を掌握するようになり、局務と呼ばれるようになりました。

旧宮家について

 ここで言う宮家とは、現在の宮家(大正天皇の子孫)ではなく、室町時代に創始された伏見宮家をはじめとする、江戸期に継続して存在した4宮家のうち、3宮家の家紋を示しています。4宮家とは伏見宮・閑院宮・有栖川宮・桂宮(はじめ八條宮のち京極宮を経て桂宮)のことで、このうち桂宮家そして有栖川宮家は明治に断絶しました。

 これらの宮家は当然皇室を祖としていますが、現在の宮家とは違い、皇室から別れた後にも一家を構えて別の流れを形成してきました。徳川宗家に対する御三家のようなものです。その存在は皇統の複数化を図る幕府の思惑もあったのでしょう。宮家代々の当主は時の天皇の猶子となって「親王」の称号を与えられていましたので「四親王家」とも呼ばれました。その家紋は装束その他様々なものに意匠として用いられています。

 明治に以降に、さらにこの宮家から分家が生まれたり廃絶があったり、明治天皇のお子様が独立されたりした後、最終的には「14宮家」となりました。ここではそうした宮家のうち、久邇宮家・東伏見宮家・北白川宮家・竹田宮家の紋も加えてご紹介いたしました。これら宮家は戦後、昭和天皇の兄弟である「直宮(じきみや)」を除いた11宮家は全て皇籍を離脱し、皆さん一般人としての生活を営んでいます。

付録:武家の家紋

北條三ツ鱗 足利二ツ引両 菊水 三ツ葉葵

解説

北條三ツ鱗
鎌倉幕府の執権職を世襲した桓武平氏、北條家の家紋です。これは初代の北條時政が江ノ島弁財天に一族の繁栄を祈願したときに、大蛇が現れて一門繁栄の神託を告げ、その際に三枚の鱗を残したという伝説に由来すると言われています。絵巻物や関係寺院の紋から見て、この北條家の三ツ鱗は正三角形ではなく、下広がりの二等辺三角形のようです。なお、早雲を初代とする小田原の後北條氏は鎌倉の北條氏と血縁的関係はありませんが、あやかって三ツ鱗の紋を使用しています。
足利二ツ引両 (丸に内二ツ引両)
清和源氏の名門である足利家の家紋です。同族の新田家は横線が一本の「一ツ引両」です。足利将軍家から分かれた家々も同様の二ツ引両に外周の○を連続させたもの(丸に二ツ引両)や、三ツ引両を用いました。管領の山名、畠山、一色、細川、そして吉良家、今川家などが「丸に二ツ引」を用いています。戦陣に張る幕は横長の布を縦に5枚つないで作りました。この5枚の色分けで陣営を表しました。足利は二つ引き(上から白黒白黒白)、新田は一つ引き(上から白白黒白白)の幕で、ここから家紋が生まれました。三ツ鱗にしても、この二ツ引両にしても、初期の武家家紋は公家の家紋と比べて図案としては非常に単純です。これは戦場での敵味方の識別を容易にするような現実的な用途があったためと思われます。
菊水
楠木正成が用いたとされる紋です。正成の忠義に対して後醍醐天皇が菊花紋の使用を許可したことに由来するといわれています。菊水の紋と「非理法権天」の幟旗が楠木正成の旗印となり、後世「忠義」の象徴とされて、太平洋戦争の時にまで用いられた数奇な運命をたどった家紋です。
三ツ葉葵
誰でも知っている徳川家の家紋です。徳川家発祥の三河国松平郷は上賀茂神社の御神領で、松平(徳川)家もその氏子であったため、上賀茂神社(葵祭りで有名)の神紋である「葵」を家紋にしたのです。元々は直立する葵が先端で三つに割れる形でしたが、いつからか「三ツ葉葵」の形になっています。これは崇敬した八幡神の神紋「三ツ巴」をアレンジしたとも言われています。江戸時代には「徳川」を名乗った宗家および御三家のみが用いました。それぞれの家の三ツ葉葵は同じように見えますが、葉脈の形などで微妙に異なります。