近衛家 (近衛牡丹) |
九条家 (九条藤) |
二条家 (二条藤) |
久我家 (五ツ龍胆車) |
三条家 (唐菱花) |
西園寺家 (左三ツ巴) |
徳大寺家 (木瓜花菱浮線綾) |
今出川家 |
花山院家 (杜若菱) |
広幡家 (十六葉裏菊) |
広幡家 (十六葉裏菊) |
広幡家 (十六葉裏菊) |
正親町三条家 (正親町連翹) |
三条西家 (八ツ丁字車) |
中院家 (六ツ龍胆車) |
中御門家 (抱キ柏) |
綾小路家 (笹龍胆) |
正親町家 (三ツ藤巴) |
日野家 (鶴ノ丸) |
広橋家 (対鶴ノ丸) |
高台寺文様 (菊花紋と五七桐) |
高台寺文様 (菊花紋と五七桐) |
西洞院家 (揚羽蝶) |
勧修寺家 (竹丸に三羽雀) |
旧伏見宮家 | 旧閑院宮家 | 旧有栖川宮家 | 旧久邇宮家 |
旧東伏見宮家 | 旧北白川宮家 | 旧竹田宮家 | 宮中諸儀礼紋 (木瓜) |
公家について
公家は平安時代に固定化が始まり、藤原北家を中心に、源氏(清和・宇多・村上・花山・正親町の各天皇を始祖とする家)、平氏、藤原南家、菅原、清原、卜部、安倍、大江、丹波などの一族が各家を確立し、分家を繰り返して多くの家が成立していきました。公家が政治の実権を失った頃から、家々の家格や家業(和歌や楽器、香道や書道、衣紋道、料理など、各家それぞれの専門的な得意芸で、家元的な立場に立つ)が定まって来ました。
家格は江戸時代末までに次のようになりました。家の数は転変があるため幕末の数を基準としています。
家業としては代表的なところでは、和歌の冷泉、笛の三条、琵琶の西園寺、書道の大炊御門、料理と相撲の四条、衣紋道(着付け)の高倉・山科、香道の三条西、蹴鞠の飛鳥井などがあります。それぞれ家元的な立場で弟子筋を指導していきました。また家業以外でも神職の統括としての吉田家、座頭(盲人)統括の久我家など、特殊な権益も存在していました。
公家の家紋
公家たちは皆、牛車に乗って参内したので他家の牛車との識別の必要を生じました。そこで各家は家ごとにゆかりのある文様を描いて目印としました。これが公家の家紋の始まりと言われています。車紋から家紋に直接つながったとされるものに、西園寺家の巴紋、徳大寺家の御簾裳額(木瓜)、近衛家の牡丹、花山院家の杜若、日野家の鶴丸などがあります。
また家紋という物が確立されてきますと、車紋を定めていなかった家々もなにがしかの家紋を設定し始めましたが、その場合は家の成立にかかわる紋が多いようです。藤原氏直系を自認する家柄は「藤」にかかわる紋が多いですし、また久我(こが)家など源氏は「龍胆(りんどう)」にかかわる紋が多いようです。皇室から分かれた広幡家などは菊にかかわる紋、平氏の一族である西洞院家などは揚羽蝶、菅原氏一族の諸家は道真公が愛した梅を象って家紋にしたと言われます。さらに分家が生じたときには本家の家紋をそのまま用いたり、モチーフはそのままに一部加工したりしました(鶴丸紋の日野家から分かれた広橋家が向かい鶴丸紋など)。その他興味深いのは三条西家の八ツ丁字車紋で、これは同家の家業が香道であることから、香料である丁字(クローブ)をモチーフにしたのでしょう。
ともあれ公家の家紋は、車の文様から由来したものと、出身に由来したもの、特別のゆかりで定められたものなどがあり、優美な図柄が多いことが特徴です。こうした公家の家紋は財政的に困窮していた江戸時代にお金で譲られたりしたために多くの家々に伝わることとなり、今では広く一般に用いられています。
公家の家紋についてのエピソードはたくさんありますが、面白い事実を2例紹介しましょう。
竹に雀
「雀のお宿」の昔話にあるように、竹藪に群集する雀は古くから人々の関心を集め、「繁栄」の象徴と考えていたようです。記録に残るところでは、平頼盛が車紋として用いたのが端緒とされて評判となりましたが、まもなく平氏は滅亡します。その人気の文様を使ったのが藤原北家の勧修寺(かじゅうじ)家でした。勧修寺家からは多くの分家が生まれました。甘露寺、万里小路、中御門(羽林家の同名の家とは別)、芝山、池尻、梅小路、岡崎、穂波、坊城などの公家が本流勧修寺家と同じ紋を用いました。この紋は皇室の菊・桐、摂関家の牡丹に次ぐ権威のある家紋として重んじられていたようです。
また勧修寺家からは武家も生まれました。上杉家などが代表例です(始祖は上杉重房)。武家となった家では本家の公家に遠慮して雀を3羽から2羽に変化させています。上杉家は室町時代に関東管領として関東一円に勢力を伸ばしました。そのため、相模(神奈川県)を中心として東北方面まで、「竹に雀」の家紋は広く分布しました。また上杉家は伊達、最上氏にも家紋を伝えています。このうち伊達家の「仙台笹」は現代的な意匠が斬新ですが、これも発祥が優美を誇る公家の家紋だからと言えるでしょう。
源氏の笹りんどう
「源氏の家紋は笹竜胆」と言う伝承は多いようです。広く知られているように、「源氏」というのは天皇の子供が臣下に下る際に与えられる姓です。ですからどの天皇の子供から家が始まったかによって、「嵯峨源氏」「宇多源氏」「村上源氏」「花山源氏」「正親町源氏」など多くの源氏が存在し、それぞれは現実的な意味での親族ではありません。ところが鎌倉幕府を開いた武家の「清和源氏」が有名であるため、「源氏=清和源氏」というイメージがあることも事実です。
公家の源氏のうち、最も権勢を誇ったのが村上源氏の「久我(こが)家」です。この家では装束などに竜胆の文様を多用しました。鎌倉時代の久我通方が著した『餝抄』には「当家では壮年まで指貫に竜胆襷(地紋のページ参照)を用いる」とあります。のちに確立された家紋も竜胆をモチーフとしたものを用いました。久我家から分かれた中院家、六条家なども同じく竜胆の紋です。また宇多源氏も竜胆を用いました。綾小路、庭田、五辻、大原、慈光寺などの家で、いわゆる「笹竜胆」が家紋です。なぜ公家の源氏が竜胆の紋を用いたかは不明です。一説には「天皇の装束の紋は桐竹であり、源氏は皇族の出身。竜胆の花は桐の花に似て、笹は竹に似るからだ」とも言われますが、どうも俗説のようです。だいいち、「笹竜胆」の「笹」は笹のように見えますがリンドウの葉であり、笹ではありません。
さて、武家の清和源氏は、こうした公家の竜胆紋とはまったく無縁でした。しかし公家の源氏での竜胆紋、特に笹竜胆が有名になって来ると、これと混同して、清和源氏も古くから笹竜胆の紋を用いていたとする俗説が生まれました。そして江戸時代に清和源氏に属すると称する武家が、この俗説に従って笹竜胆を家紋として選び、さらに俗説を補強する形となって、今日「源氏=清和源氏=笹竜胆」というイメージができあがっているのです。
地下家(じげけ)について
上記の公家は「堂上(とうしょう)」とも呼ばれます。堂上は内裏清涼殿の殿上の間に昇殿できる五位以上の者を指しましたが、やがてその立場が固定化され、昇殿できる「家柄」のことを堂上家と呼ぶようになりました。一方、地下は本来は昇殿できない立場の者の総称でしたが、やがて朝廷で実務を執る官人の称に固定化されました。堂上と異なり、この家格に属する者はたとえ三位の高位に進んでも、一人前の「殿上人」としての処遇は得られない差別待遇をされていました。明治維新後、官務の壬生家と局務の押小路家は華族に列せられました。
旧宮家について
ここで言う宮家とは、現在の宮家(大正天皇の子孫)ではなく、室町時代に創始された伏見宮家をはじめとする、江戸期に継続して存在した4宮家のうち、3宮家の家紋を示しています。4宮家とは伏見宮・閑院宮・有栖川宮・桂宮(はじめ八條宮のち京極宮を経て桂宮)のことで、このうち桂宮家そして有栖川宮家は明治に断絶しました。
これらの宮家は当然皇室を祖としていますが、現在の宮家とは違い、皇室から別れた後にも一家を構えて別の流れを形成してきました。徳川宗家に対する御三家のようなものです。その存在は皇統の複数化を図る幕府の思惑もあったのでしょう。宮家代々の当主は時の天皇の猶子となって「親王」の称号を与えられていましたので「四親王家」とも呼ばれました。その家紋は装束その他様々なものに意匠として用いられています。
明治に以降に、さらにこの宮家から分家が生まれたり廃絶があったり、明治天皇のお子様が独立されたりした後、最終的には「14宮家」となりました。ここではそうした宮家のうち、久邇宮家・東伏見宮家・北白川宮家・竹田宮家の紋も加えてご紹介いたしました。これら宮家は戦後、昭和天皇の兄弟である「直宮(じきみや)」を除いた11宮家は全て皇籍を離脱し、皆さん一般人としての生活を営んでいます。
北條三ツ鱗 | 足利二ツ引両 | 菊水 | 三ツ葉葵 |