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装束の種類(直垂)

直垂の歴史
 直垂は原始的な構造ですから古代から用いられましたが、こうした「垂領(たりくび)」つまりVネックの衣服は、袍のような丸い「上領(あげくび)」の衣服よりもグレードの低いものとして扱われ、長く庶民の服でした。平安後期に活動的なところが評価されて武士が着用しはじめ、鎌倉時代になると幕府に出仕する時の通常服となりました(上級武士は水干ですが)。鎌倉時代後期には水干に代わって武士の代表的な衣服となり、さらに室町時代には礼装としての地位を占めるようにさえなります。武家の服装を代表するものとなりました。

 江戸時代には束帯などを除いた一般的な最高級礼装となりました。この場合、袴は長袴を用います。
幕末維新期に直垂が復活します。鉢巻きを付けた梨子打烏帽子(なしうちえぼし)を付けた装束が公家や大名の間に礼装として用いられました。明治初期にも無位の藩士達の朝廷出仕の制服として用いられました。明治5年9月、新橋〜横浜間の鉄道が開通した式典では、西郷隆盛や大隈重信など顕官がこの装束で参列しましたが、同年11月の太政官布告で大礼服を西洋風に定められ、この服制は廃止されました。

 現在では、雅楽の楽師や祭礼の供奉人、大相撲の行司の装束に見ることが出来ます。

直垂の区分
 直垂は直垂、大紋(だいもん)と素襖(すおう)に大別されます。これらは室町時代に生まれたバリエーションです。大きな違いは原則として直垂には裏地を付けて、大紋と素襖には裏を付けないこと、胸紐や菊綴結が、直垂と大紋は丸組紐であることに対して、素襖は革リボンであることです。直垂と大紋の外見上の大きな相違は、大紋にはその名の通り、大きな家紋の文様が染め抜かれることです。

直垂の構成

直垂の名所(などころ) 菊綴結 胸紐の付根

  直垂は、左右の前身頃を引き違えて合わせて着る垂領(たれくび)の上衣と、同色の袴を組み合わせた装束です。本来はこの上衣を直垂と呼びましたが、共生地の袴をはくようになってから、装束全体を「直垂」と呼ぶようになりました。上衣は二幅仕立、袵(おくみ)がなく、腋を縫い合わせません。襟の左右に紐(胸紐)を付けてこれを結んで前を留めます。

 直垂が礼服化しますと、生地も高級になり、公家装束のような広袖となって、袖丈も長くなりました。また水干のように背中中央や両袖など5か所に菊綴が付けられました。この菊綴は水干と違って房状ではなく、丸組紐を組んで8の字にした「もの字」の菊綴結を置いています。ただし鎧直垂(よろいひたたれ)は房状の菊綴を用います。
 胸紐(むなひも)は、古くはごく単純なもので、水干の影響からかごく上の位置にありましたが、室町時代に形式化するに従って位置が下がり、付け根もハート形に装飾するようになりました。
 原則として袖括りの紐は表に出ないで内側に籠める「籠括」で、末端の結び余りだけが袖下に出ます。これを「露(つゆ)」と呼びます。現在では、見映えのこともあってか、狩衣と全く同じ薄平の袖括りを付けるのが一般的なようです。
 
袴は6幅。現在は切袴ですが、鎌倉時代には裾に紐を通して括り袴にしていたようです。その形状は鎧直垂に残っています。室町時代には括り紐のない切袴となり、江戸時代の礼装としては長袴を用いました。袴にも4か所、菊綴結を付けて装飾とします。
 袴は同色が原則ですが「直垂袴姿」と称して別色を用いることもあり、室町時代には礼装として白い大口袴をはいた姿も用いました。
 袴の紐は白が基本で、色を変えるときも身と共生地は使いません。

  生地の地質は、本来は布(麻)ですが、礼服化してから生絹(すずし)、精好(せいごう)、紗(しや)などの絹織物を用いるようになりました。色や文様は自由であり、特別な定めはありません。
 足は足袋をはかず素足が正式です。

直垂を着る状況
日常着である直垂も時代が下るに従い公服、礼服化しました。江戸時代には最高レベルの礼服になっていました。公家も内々に着用していました。今日では雅楽の楽師の一般的な服装になっています。また行司装束としても用いられています。

絵巻物に見る直垂 (法然上人絵伝・鎌倉時代末)

後ろ姿 胸紐の位置が
高い
裾の
たるみ
上級武士の
立烏帽子
小袖が見える
生絹の直垂
稚児髷姿に
袖括り有り
日本有数の
有名なカップルです

 法然上人絵伝は数多くの絵師が関与していますので、タッチがかなり異なります。逆に言えば、複数の目で見た共通項が探れます。
 特徴的なのは、腰帯の色が白であったり、薄茶?であること、前の打ち合わせが例外なく後世の着物のようにしっかりと引き合わせていること、菊綴が見えないことです。かなり写実的に描いている絵師(左から3,4番目)の作でもこれが見られません。袴のひだが上部にしかない「ねじ襠仕立て」であることも注目に値します。袴の裾はみな不思議なたるみ方をしており、現在の差袴よりずっと細身です。この裾のたるみは、括り袴であることを表現しているのでしょう。胸紐は描かれる者と描かれない者があり、適宜だったのかも知れません。また胸紐の位置は非常に高いのが特徴です。袖括りの紐は表に出ない「籠括(こめくくり)」がほとんどで、結び余りを外に出した「露」だけが見えているものもあります。
 烏帽子はほとんど折烏帽子(侍烏帽子)ですが、一部の上級武士は立烏帽子を着用しています。

足利義教像

直垂が礼服化した時代の像です。
胸紐が長く垂れ下がるようになりました。ただし付け根は
まだハート形ではありません。
袖に「もの字」の菊綴結が見えます。
頭には風折烏帽子を付けています。

直垂の烏帽子

引立烏帽子(現在) 古式の侍烏帽子 侍烏帽子(舟形)
梨子打は後ろで結び、
引立は前結びが本義です。

引き違えるときは交差でなく
からませます。
萎(もみ)烏帽子の種類 侍烏帽子(舟形)

 直垂装束の烏帽子は、絵巻物を見るように上級武士が立烏帽子、中級以下の武士が折烏帽子です。折り烏帽子は烏帽子を折り畳んだもので、「侍烏帽子」とも呼ばれました。
 侍烏帽子は時代的な変遷があります。絵巻物に見るように、はじめは烏帽子を4〜5回畳んだもので、この折り方にはさまざまな方法が考案されました。通常、「髻(もとどり・いわゆるチョンマゲ)」に紐を掛け、それを烏帽子に貫通させて外に出し、烏帽子と結びつけた「小結(こゆい)」で固定しました。公式の場や戦場ではしっかりと固定させるために頂頭掛(ちょうずがけ)の掛緒をあごに回しました。

 室町時代以降、上級武士や公家は立烏帽子や風折烏帽子を用いました。室町時代も後期になると髪型が変わり、「髻」を収納する部分が不要になり、むしろ前を三角形に高くしたタイプが生まれます。それがさらに形式化されたのが紙を漆で固めた舟形の侍烏帽子で、江戸時代は素襖のかぶり物と定められました。

 江戸幕府での礼装としての直垂や大紋直垂では、風折烏帽子をかぶります。映画の「忠臣蔵」では浅野内匠頭が大紋に梨子打烏帽子をかぶっている姿を目にすることもありますが、これは誤りで、正しくは吉良上野介(四位・狩衣階級)と同じ風折烏帽子です。
 幕末維新、明治草創期の礼装としての直垂では鉢巻きを付けた梨子打烏帽子(なしうちえぼし)を用いました。

 現在の雅楽師などは梨子打烏帽子を用いていますが、これを一般的には「引立(ひきたて)烏帽子」と呼んでいます。本来両者は図の通り別物です。今の楽師装束は引立烏帽子を後ろにたわめて、鉢巻きを後ろで結ぶ折衷型が多いようです。
 大相撲の行司は鎌倉時代式の侍烏帽子を大型にして、頭にすっぽりとかぶれるものに掛緒をつけて着用しています。

大紋(だいもん)・素襖(すおう)

室町時代に直垂が礼服化しますと、いろいろなバリエーションが生まれました。

大 紋

 大紋は、正しくは「大紋直垂」と言います。外見は直垂と同形式ですが、布地が単で裏を付けないこと、生地が原則として布(麻)であることです。この名称の由来は、袖、背、袴の膝、それに袴の両側と腰などに大きな家紋を、白く抜いていることからきています。

素 襖
 室町中後期以降に大紋の変化したしたものですが、大紋は、胸紐や露、菊綴結が丸紐であるに対して、素襖はそれがテープ状の革紐です(歌舞伎衣装では大紋も素襖も革紐や布製です)。そのため「革緒の直垂」とも呼ばれます。また染め抜く家紋が大紋より小さいのも特徴です。さらに直垂や大紋の袴の紐が原則として白であるのに対し、素襖は共生地です。
 江戸幕府の礼装としては下級者の衣服でした。

江戸幕府の礼装

三位以上、四位参議・侍従以上 直垂 風折烏帽子
四位 狩衣(裏地あり) 同上
五位諸大夫 大紋 同上
六位以下許可ある諸士 布衣(裏なし狩衣) 同上
六位以下の諸士 素襖 侍烏帽子

鞠水干 (まりずいかん)

 蹴鞠(けまり)の装束です。平安時代は直衣や狩衣など普段着で行っていた蹴鞠ですが、後鳥羽上皇の頃から形式化して、室町時代には専用の装束が生まれました。これを鞠水干と呼びます。「水干」と称しても実際には直垂のバリエーションです。

 立烏帽子をかぶり、葛鞠袴(くずまりばかま)という葛布の指貫をはきます。葛袴は経糸(たていと)に麻や綿、絹。緯糸(よこいと)に葛の繊維を使います。葛布(くずふ)で仕立てこの指貫には「露革(つゆかわ)」と称する飾りが前膝上に付いています。鞠水干上衣は麻布羅絽(金紗と称します)製の直垂です。着方の特徴は、胸紐を通常に結ばずに、下に垂らし、袴(指貫)の帯と絡ませることです。

 沓は古くは平常の浅沓などを用いていましたので、脱げ落ちないように革ひもで結んでいましたが、のちに沓と襪(しとうず=靴下)を縫い付けた鴨沓(かもぐつ)と言われる牛革製の沓が用いられました。この場合、襪は沓に縫いつけられて一体化して革製になり、漢字も革偏の「韈」になっています。

 鞠道では、水干・袴・烏帽子の掛緒(組み紐)、韈の色目をレベルに応じて定めています。

蹴鞠保存会「段階級別色目表」 昭和38年制定

級段位 烏帽子 水干
入門 侍烏帽子 絹綟 白(浅葱裏) 藍革 七骨
八級
七級 麹塵 浅葱(白裏) 藍白地革
六級 布羅 柿色(浅葱裏) 青錦革
五級 風折烏帽子 朽葉下濃
四級 萌黄下濃
三級 玉虫
二級 紫下濃
一級 桔梗下濃
初段下 立烏帽子 色糸文紗 白(紅裏) 赤錦革 七骨椎要付
初段上 摺箔 桔梗 十骨椎要付
二段下 縫上
二段上
三段下 大鳥
三段上 金紗 蘇芳
四段下 無文紫革
四段上 朽葉
五段下 紫上 萌黄(白裏)
五段上 紫金紗
六段 桃色金紗 有文紫革
七段 紅色金紗 萌黄(共裏)
八段 立烏帽子紫掛緒 紅金紗 白打貫 有文燻
九段 香上 摺箔 蘇芳骨
十段 香金紗 片身替

行司装束

現在、直垂を見ることの出来るもっともポピュラーな場面は大相撲の行司装束でしょう。

 行司の装束は『審判規則』第一条で「行司が審判に際しては、規定の装束(直垂、烏帽子)を着用し、軍配を使用する。」と定められています。この古式ゆかしい装束ですが、実は明治に決められた装束です。これは両国国技館の開館した翌年の明治43(1910)年5月の夏場所からのもので、それまでは裃(かみしも)・袴姿でした。烏帽子が鎌倉時代のような古式の侍烏帽子であることが特徴です。また菊綴は丸組み紐「もの字」ではなく、水干のような房です。行司の直垂は、ある意味で実用装束ですから実際上の工夫があります。つまり通常の直垂ではなく、鎧直垂に近いと言えるでしょう(菊綴の形状からもわかります。ただし鎧直垂はずっと細身です)。
 袖には括り紐を入れていますが、土俵に上がる際には実際に括りますから平紐ではなく、括りやすい丸組紐です。袴の裾にも括り紐がありますが、これを実際に括るのは幕下格以下ですから、それ以上の格では平紐です。
 袴の緒(帯)は白色で細く、結び方は、一般の男性用の袴の結び方をしているようです。

 行司の直垂は色には定めはありませんが、階級によって胸紐、菊綴や軍配の房緒の色が定まっています。
『審判規則』第二十条 「行司は、その階級に応じて左の如き色を使用する。」 

階級 物具(持ち物)
立行司 (横綱格)木村庄之助 総紫 足袋、上草履、短刀、印籠
立行司 (大関格)式守伊之助 紫白 足袋、上草履、短刀、印籠
三役格行司 足袋、上草履、印籠
幕内格行司 紅白 足袋
十両格行司 青白 足袋
幕下二段目以下 黒又は青 なし(はだしで、袴は膝下まで括り上げる)

2色のものは、紐は「だんだら」、菊綴は円を4分割して交互に色分けします。青は古式のグリーン系。幕下と三段目は青、序二段・序の口・前相撲が黒とされるようです。

紫白の菊綴

烏帽子の掛緒は、古式に従い全員紫の丸組紐です。
 地位に応じて、日本相撲協会から月給以外に装束補助費が支給されます。幕内格以上には1場所について5万円、幕下格以下には同2万円だそうです。直垂の生地には定めがないため、家紋などを織り出した絹織物が多く、立行司用の直垂は約120万円程度、十両格のものでも80万円程度のものが多く、なかなか大変なようです。
 審判動作に使う軍配は行司の私物です。戦国時代の武将が使っていたのと同様のもので、正しくは「軍配団扇(ぐんばいうちわ)」と呼びます。欅(けやき)・黒檀(こくたん)・紫檀(したん)などの堅木製で、表裏に各自の好みの漢詩や模様、家紋などが描かれています。必ず「天下泰平」と書いているわけではありません。

格衣(かくえ)

 神職が狩衣などの装束を省略したときに羽織るのが格衣です。
これは直垂の上衣の腋を縫いつぶしたものですが、この部分を「甚兵衛」のような「千鳥懸(ちどりがけ)」にしたり、ヒダを付けたりさまざまに工夫をして伸縮性を出しています。本来、腋を縫わずに自由度を出した直垂ですから、こうした配慮が必要なのです。
 上衣の裾は羽織のように出したままで、直垂のように袴に着込みません。指袴(切り袴)をはき、立烏帽子をかぶります。


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