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平安の遊びの数々・・   遊びごころは、今も昔も変わらないのです♪  

    遊びをせんとや生まれけむ

       戯れせんとや生まれけん

     遊ぶ子どもの声聞けば

        我が身さへこそ動がるれ 
 
                              『梁塵秘抄』
    

平安時代の遊びと言えば、まず詩歌を作る、管弦つまり音楽を演奏するといったもの。
しかし、これはむしろ基本的な素養として扱われています。今で言う接待ゴルフ、接待麻雀と言ったものでしょうか。
また宮中儀礼や習慣に基づく年中行事的な公式?の遊びもありました。
ここでは、それら以外の純粋な「お遊びもの」を集めてみました。

『枕草子』には、「あそびわざは、小弓、碁。さましけれど、鞠もをかし」と書かれています。
碁はいまさら説明の必要はないでしょう。

小弓(こゆみ)
射的あそびです。小さな弓矢で的に当てる室内ゲームで、的は小型の衣桁のようなものに後ろ布を垂らし、その前に錘をぶら下げた的をつり下げます。さらに小型の子どもの遊技「雀小弓」もありました。

蹴鞠(けまり)
蹴鞠には本来は勝敗がありません。
相手が蹴りやすいように心がけて、次々と鞠を渡すようにします。相手が蹴り損なうと、渡し方が悪いとされるのです。つまり競技ではなく、職場の昼休みの屋上バレーボールみたいなものです。
 ルールとしては「三足以上蹴る」というお約束があります。これは一足目は貰って受ける鞠、二足目からは自分が蹴って楽しむ鞠、そして最後に相手が蹴りやすいように渡す鞠ということです。足を高く上げて足の裏を見せることは品がない所行とされました。また周囲に植えた木(本木)の一番下の枝よりも高く蹴る必要があるとされました。こうしたルールは初期は明確でなかったようですが、平安後期頃から形式化されたようです。
 12世紀になると難波・飛鳥井家によって「蹴鞠道」の儀礼が生まれ、細かいしきたりと競技ルールが生まれました。正式な蹴鞠場は柳・梅・松・楓の4本の「式木」を3〜4間の間隔をおいて植えます。地植でない木は「切立」と言います。こうして囲まれた競技場を「懸(かかり)」と呼びます。選手?を「鞠足(まりあし・きくそく)」と呼びます。懸の中で2人が組になって各式木に位置し、総員8名で松の木の根元の「上鞠」が3回蹴り上げてから次に渡し、順に鞠を回して鞠を下に落とさずにどれだけ続けられるかを競います。懸の周囲には外に出た鞠を内側に返す「野伏」が4人、さらに数人の「見証」が状況を審判して蹴りの続く回数を数えます。50から数え始め、1000が満点ですが、なかなかそこまで届くものではありません。鞠は鹿革で中空、蹴るほどに膨らむ構造になっています。
 蹴鞠は絵巻物を見ると平安時代には狩衣や直衣という普段着を着たまま行われていました。ただし足には「革しとうず」という靴下をはき、沓が脱げないように革紐でくくりとめます。『年中行事絵巻』には、赤や青の革しとうずをはいて、お付きの童に沓を結ばせている冠直衣の公達が描かれています。

 現在見る蹴鞠装束は「鞠水干」と呼ばれる長絹直垂のような上衣と葛袴を着用、沓も専用の「鴨沓」(鴨のクチバシに似ているから)を履きます。
蹴鞠が上達すると烏帽子に組み紐の掛け緒(組掛)を用いました。勅許を得ればこの組掛を衣冠の冠や日常の烏帽子に用いることが出来ました。この場合は、40歳以下は紫、40代薄色、50歳以上紺、老年は難波家流は白、飛鳥井家流は黒でした。

打毬(だぎゅう)
 中央アジアから中国を経て伝わった集団球技です。騎馬球技と徒歩球技があり、前者はポロ、後者はホッケーに似て、毬門(ゴール)に毬を打ち入れるものです。これをモチーフとした「打毬楽」という舞楽もあります。舞楽で使う杖はホッケーのスティックによく似ています。
 奈良時代の神亀4年(727年)、皇子諸臣が春日野で打毬楽・・・と万葉集に書かれています。騎馬か徒歩かわかりませんが「楽」とありますから、徒歩で打毬をしながら舞ったものであったかもしれません。こうした光景は舞楽さながらであったことでしょう。高松塚古墳の壁画に打毬の杖のようなものを持っている姿が描かれていて一時話題になったものです。
 打毬がいつ伝わったかについては諸説あります。
平安時代・仁明天皇の弘仁13年(822年)に、渤海国使が豊徳殿で打毬を行ったという記録(類集国史巻72)や、承和元年(834年)に仁明天皇が武徳殿前庭で近衛府の官人に打毬をさせたという記録(続日本後紀)が残っています。そのため平安初期に朝鮮半島から伝わったという説もまた有力です。
 徒歩打毬の細かいルールは判っていませんが、ホッケーに似たルールであったのでしょう。
 騎馬打毬は、今日でも宮内庁主馬班が伝統を守っています。
戦前の「宮内省主馬寮」がまとめた『打毬の由来』には、騎馬打毬について「奈良・平安両朝を通じて宮中端午節会の後に行われたが、鎌倉時代以降、戦乱や経済的理由により年中行事は簡略化され、ついには中止された。」 「その後、江戸時代に武道の復興に熱心であった徳川吉宗の奨励により、馬上武技の演練として幕府直臣はじめ諸大名の間にも行われるようになった。競技法も平安朝期の再現でなく江戸時代独創のものであった」との記述があります。
 そうしたことから、今、各地で保存されている古式騎馬打毬は、江戸時代のものであって平安のものとは異なると言えるでしょう。
 各地でさまざまなローカルルールがあるようですが、2組に分かれ各組4=5騎。騎士は馬上から「毬杖(さで)」と呼ばれる網の付いた長い竿で自分の組の色の毬(紅・白)をすくい上げ、毬門へ投げ入れます。定められた数の毬を先に入れ終わった組が勝ちです。

石投(いしなご)
石を数個下に置き、一つを高く放り上げて、落ちてこないうちに置いた石を拾って落下してきた石を受ける遊びで、いわゆる「お手玉」です。
『法隆寺献納宝物』に「法隆寺の賓物に、いしなとりの玉あり」と書かれています。
 平安時代、西行法師の歌ったものとして、
「いしなごの  玉の落ちくるほどなさに  過くる月日は  かはりやはする」
と『聞書集』に記載されていますから、ポピュラーな遊びであったのでしょう。

独楽(こま)
今もお正月の遊びとして、あるいは子どもの楽しみとして残っている独楽(こま)回しは、中国で生まれ、朝鮮半島(高麗)を経て伝わったとされ、「高麗」から「こま」と呼ばれるようになったと言われています。また古くは「独楽(こま)」のことを「こまつぶり」と呼んでいたらしく、「こま」とはその略のようです。
室町時代の『慕帰絵詞』には、門前で独楽回しに熱中している子供たちが描かれています。

弾棋(だんぎ)
漢の時代の囲碁のようなゲームです。古い時代の詳しいルールについてはよく判っていませんが、『三国志』には曹丕が弾棋の名人であったと書かれています。日本では本来のゲームは早くに廃れてしまったようで、これに用いるコマを「おはじき」にした遊びが楽しまれていたようです。単純な遊びだけに明確なルールは伝わっていません。

投壺(トウコ)
中国では周の時代から行なわれた古いゲームで、『礼記』にその礼式が記述されている上流階層の宴席での社交ゲームでした。日本にも古くから伝えられ、正倉院には唐代の壺やが遺されています。
 左右に立った2人の競技者がそれぞれ12本の矢を持ち、離れた所に置いた壺に交互に矢を壺の口、左右につけられた耳に投げ入れます。入った矢の本数と形で勝敗を決める遊びです。「形」で採点されるという「芸術点」があるためにルールがややこしく、『礼記』に書かれるほどの細かい礼式が面倒であったためか、日本では衰微します。江戸時代に一時復活しましたが、すぐに廃れ、「投扇興」に変容して発展したとも言われています。

竹馬
今見る竹馬とは違い、笹竹の枝にまたがって騎馬ごっこをするものです。子どもの代表的遊びとしてさまざまな絵巻物にその姿を見かけます。

輪鼓(りゅうご) 
鼓形の筒を、紐で回すように操る遊び。形は三角形を上下に二つつないだもので、木で出来ている、これを柄のついた糸を両手であやつり、転ばして廻す。あるいは投げ上げて、糸で受け取ってまた廻すというもの。ヨーヨー式の独楽遊びとも言えるものです。
 『梁塵秘抄』に若い公達の好みの柄として「輪鼓、輪違、笹結び」と歌われていますから、平安時代からお洒落なデザインとして扱われていたのでしょう。
鎌倉時代の一遍上人が仏門に帰依するきっかけは、子供の遊ぶ輪鼓を見て「輪廻というものも、こういうことか」と悟ったからと言う説もあります。
 女子の長袴の緒(腰紐)の先に、ひらひらしないためのおもりとして太い糸を輪鼓形に縫いつけます。「龍鼓」と書いて「りゅうご」と呼ばせることもありますが。本来は輪鼓です。

雛(ひいな)遊び
今の雛祭りの人形飾りに通じる人形を使った遊びで、着替えさせたりする「ままごと遊び」であったようです。
 『枕草子』には「すぎにしかた恋しきもの、枯れたる葵、ひいな遊びの調度」と記され、幼き日々の楽しい思い出となる遊びであることは、今日と何ら変わるところはありません。見て楽しむ人形でなく、まさに遊べるオモチャとしての人形、そして穢れを払う「人形(ひとがた)」でもありました。

毬打(ぎっちょう)
打毬が形を変えたもので、ひろく庶民にも広がりました。そうなると当然のように賭博にも利用されたようです。長い柄のついた槌で玉を打つ平安時代の遊びの一つである毬杖は、『鳥獣人物戯画』にも登場し庶民の正月の楽しみの一つだったようです。ゲームに興じる姿、用具などは、まさにゲートボールのように見えます。

これは毬(木玉)を木の槌で打ち合う遊びですが、そのルールはよく判りません。打毬の延長と考えますとゴールゲートめがけて打ち合うゲームとも考えられます。鳥獣人物戯画を見る限りでは、各自が槌を持ち、毬も複数あるようです。
 この遊びが正月に行われたのは、正月行事の多くがそうであるように、一年の吉兆を占うためだったようです。そして災いをもたらす鬼神を毬に見立てて槌で打ったとも言われています。しかしそれは後世の見方かも知れません。当事者は純粋に遊びとして楽しみ、また多少はバクチの楽しみもあったでしょう。室町時代の『西行物語絵巻』(俵屋宗達模写)には庶民の子供たちの遊ぶ様子が描かれています。
 のちにこの遊びは儀式となりました。『年中行事絵巻』に儀式の様子が、描かれています。小正月の15日、清涼殿の東庭において青竹を結び束ねて立て、そこに毬打の槌3本を結びつけ、さらに扇子、短冊、古書などを添えて、謡い囃しつつ焼く「三毬打(さぎちょう)」がそれです。正月飾りを焼く「どんと焼き」を「左義長」とも言いますが、これは三毬打が字を変えたものと言われます。
 なお、左利きの人が槌を左手で持つ様子を「左毬打(ひだりぎっちょう)」と言い、これが「左ぎっちょ」の語源と言われます。

意銭(いせん)、銭打ち
 地面にいくつかの銭を並べ、適当な距離をおいて自分の銭を相手の指示する銭に投げ当てるものです。立体的な動きを見れば「めんこ遊び」、平面的に見れば「おはじき」「ビー玉」のような遊びでしょう。こうした単純な遊びは使用する用具こそ違え、いつの世の中にも生まれては消え、変容しつつ受け継がれていくのでしょう。
 なお、銭は奈良時代(708年)の和同開珎から、平安時代(958年)の乾元大寶まで発行され、中流以上の階層でそれなりに流通していました。この銭貨は「皇朝十二銭」と呼ばれています。

物合わせ
二組に分かれて詩歌のできばえを競う「歌合わせ」は有名です。
歌合に限らずその昔は、香合わせ、貝合わせ、絵合わせなどの遊びが多く行われていました。
競う題材はなんでもありだったようで、『堤中納言物語』には、根合(菖蒲の根)の長さを競う遊びが登場します。これは端午の節句の行事的意味合いもありましたが、純粋に遊びとし楽しんでいたようです。珍しい収集品を競うコレクターのコレクション自慢はいつの世の中にでもあるようですね。
 貝合わせの文献場の初登場は『類聚歌合』にある斎王良子内親王の「斎王貝合日記」長久元(1040)年です。
春の3〜4月、斎宮寮の官人や女官たちが折々に海岸で珍しい貝を拾い集め、貝合わせ当日は若い(12歳)斎王の前で二組に分かれて珍しさを競いました。
なお、貝合わせは「貝覆い」と混同されます。貝覆いは360個(一説には65個)の貝を三重の円に並べ、蓋(出貝)と身(地貝)を合わせ集めるトランプの「神経衰弱」のようなゲームです。鎌倉時代にはこちらに移行していたようで、『徒然草』には勝利の秘訣として、「貝をおほふ人」はあまり遠くの貝をねらわずに、自分の回りの貝を確実に「掩ふ(おおう)」こと、と言っています。
 蹴鞠もそうですが、後世のゲームよりも勝敗や優劣をあからさまに競わないのが平安の貴族の遊びのようです。

偏継(へんつぎ)
「はかなき御碁、双六、偏継がせたまふなど・・・」 『栄花物語』
はっきりしたルールのあるゲームなのか、単なるその場限りの漢字教育なのか明らかではありません。
一応考えられているルールは、漢字の旁(つくり)に偏をつけて字を完成するもの、旁を隠して偏を見て文字を当てる、特定の偏の字をいくつ知っているかを競うもの、などが考えられています。もっとも競技として成立するのは3番目のものでしょうか。お寿司屋さんの湯飲みの魚偏の文字当てのような感じですね。

州浜(すはま)づくり
 饗宴の飾り物としても使われる「州浜」は、台に砂浜を作って自然を再現するもので、のちの盆景のように景色を楽しみました。一種の箱庭遊びです。盆に石や砂を配して、涼やかな入り江の景色を表現したのが州浜です。
 『堤中納言物語』には、三曲がりの州浜に起伏をつけ、くぼみに美しい貝や金銀細工の小さな貝を入れた箱を置いたものをプレゼントする情景が描かれています。「天徳の歌合わせ」にも室内装飾として用いられていました。こうしたものは中国で漢代から伝わった盆景(盆石と盆栽)が元になったものです。
 州浜はのちに室町時代に「盆石」となって、床飾りに盛んに用いられました。やがて今日に伝わる盆栽文化が生まれます。『徒然草』には日野資朝が盆栽を不自然な造形として捨ててしまう記事がありますが、逆にそれほど公家たちが愛好するに至っていたと言えるでしょう。鎌倉時代後期の『法然上人絵伝』『春日権現験記絵巻』にも盆栽(盆景?)のようなものが描かれています。
 室町将軍、足利義政は当代きっての文人将軍でしたが、盆石にも関心が深く、相阿弥に命じて盆石に関するさまざまな決めごとを作っています。義政自ら象牙の匙と白砂で浪や州浜形を盆上に描いたと伝えられています。
 こうした自然観や造形美が、やがて竜安寺の石庭に見られるような枯山水の美を生み出したとも言えるでしょう。

ペット飼育
 人間が暮らしていく上でペットが重要な位置を占めるのは古今東西変わりありません。
平安時代を代表するペットはネコでしょう。ネコはもともと日本にはいない動物で、奈良時代に中国から経典を輸入する船に同情して来日しました。これは経典をネズミの害から守るためです。ネコは宮中でもファンが多く、有名な一条天皇の飼い猫「命婦のおとど」は五位に叙されて殿上猫となり、専属のペットシッターまでいるわ、出産すれば「産養(うぶやしない)」という儀式はするわで、大変貴重に扱われた様子が『枕草子』に描かれています。逃げないように首輪でつながれた室内飼養をされていました。また「命婦のおとど」を噛んでしまうイヌの「翁丸」も、自由に宮中を出入りしていたようで、これもやはり愛されていたのでしょう。
 このほかには小鳥も愛されました。『枕草子』では「鳥は鸚鵡(おうむ)・・・」と記され、「異国出身なのに一生懸命日本語をしゃべる姿がいじらしい・・・」と清少納言らしい見方をしています。オウム(おそらくキバタンやコバタン)は東南アジア原産ですから、まさに貴重な舶来鳥。しかも人の言葉をしゃべる霊鳥として尊重されました。オウムの来日は、大化改新後の孝徳天皇の頃、朝鮮半島新羅からと記録があります。またスズメも愛されていました。源氏物語には若紫が伏籠にスズメの子を入れて飼っていましたし、清少納言は「心ときめくもの」として「雀の子飼い」を挙げています。小鳥の雛を差し餌で育てるのはドキドキわくわく、不安と期待ですが、清少納言もそうだったようですね。『枕草子』には他にも「かわいいもの」の筆頭に「ちゅーちゅー鳴くと、雀の子が躍り来る様子」が挙げられています。


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